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卒論指導について [教育について]

今はこの話から割と遠い時期なので吠えておく。

年末から年明けにかけて「卒論読むのが大変だ」「朱入れが」という先生方の嘆きを多数目にする。正直に言えば、指導を失敗しているなと思う。さらに言えば朱入れをすることで学生の指導をした気になっておられる先生方も散見する。残念ながら酷い間違いである。

学生は文章の(卒論の)書き方など知らない。早いうちに、就活が落ち着いたらすぐにでもその分野の典型的な論文の型を教え込むべし。卒論の一部になりそうなことを原稿用紙2枚程度で良いから取り敢えず書かせ、テニオハのレベルまでこっちの納得する文体になるまで直させる。そこで必要なのは、代わりに書いてやってはいけないということである。朱入れをするのもまあありかもしれないが、できれば避けたい。文句だけ言いながら、ほんの少し「口頭で」指示しながら、学生の側からこちらの我慢がなるものを出させる。朱入れと称して書き換えてしまうなどもってのほか。そんなことをしても何の力もつかない。あくまでも「口頭で」だ。

続いて卒業研究の報告の議論の導入部分になりそうなことを最低10枚くらいは書かせる。その段階で「文体について指導しただろ」「論理の意味が分からない」と厳しくケチをつける。論理が通らない場合には、口頭でメモ書き(板書)をさせながら語らせるようにすると通るようになる。その結果、そういう文体が当たり前になる。

今の世の中、当然ワープロソフトなどを使うだろうから、切り貼りは容易。まだ「手書きで」とかいう人がいるとしたら(その是非はここでは問わない)あとから清書させればよい。だから卒論の一部を書き始めるんだ、と作業をさせながら文章の書き方を身に着けさせる。

どの程度時間がかかるかについては学生自身の色々な意味でのキャパに依るが、それが出来てしまえば、あとは口頭で内容の議論をするだけで良いので、指導する側はずいぶん楽。結果的には時間の節約になる。

もちろんそれだけで完璧な卒論にはならないかもしれない。しかし全文を読んで事細かに指示することは時間の無駄である。はっきり言って、ごく一部の例外を除いて学部の卒論など書いた本人と指導教員と同じゼミの関係者くらいしか読まない。成果物が完璧な文章になることはほとんどの場合自己満足。学生の自己満足ならそれでいい。学生自身が期限内に満足するまで書けば良い。気を付けなくてはいけないのは指導教員の自己満足。ついつい時間を割いて朱入れして、もしくは相当多くを書き換えてやることなどしている先生方をよく見る。しかしそれでは学生は言われた通りに書くだけでそこから何かを学ぶケースは少ない。言い方を変えれば指導教員が卒論を書いてやってるわけで、誰のためにもならない。

学生の「自己満足」は言い方を変えれば「自身の尺度に対する満足」。もちろん大多数の学生のそれは稚拙で脆いものだ。しかし内容についても文章の型についても、この作業を重ねていくうえでその尺度自体が成長していく。そしてその経験を踏まえて、卒業後も長い時間を掛けてそれを鍛えていかれるようになるのだ。

夏休みなどの時期に学生のために時間を割くのを厭う先生方のお気持ちはわかる。だが対時間という意味のコスパは、その成果も含めて遥かに良い。秋学期が始まってすぐでもいいだろう。このやり方は学生自身の力を使ってその学生を指導するという効率のいいものなのだ。


>>>追記。という話をtwitterに連投して、ここに修整して書いてみたのだが、よく見たら昨年こんな話を書いてた。中味は全く一緒だった。自分もボケた。恥ずかしい。

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Wikipedia 禁止令 [教育について]

「識者」と言われる人の中に、
大学など無駄だ。そこで得られる知識はネットで十分得られる
などと言い切ってしまう人がいる。

ずいぶん無責任なことを言うなというのが私の感想である。

そんな「識者」が生まれた頃にはインターネットなんかなかっただろう。彼らはいわゆる学校教育(もしくはそれに類する物)を通じて自分の知識体系を作り上げてきている。

前職の同僚の言葉を借りれば
知らないものは見えない
彼は麻酔科医。放射線科医である令室の言だそうだ。色々な技術を持って身体の内部を投影しても、それを読み取る(読影)のためには、色々な疾患についての知識がないと見落としてしまうと。

ネット上にある情報は玉石混淆だが、仮にそれが全部正しいものであったとしても、そもそも自分の中に知識体系がなければそれを取り込むことは出来ない。

閑話休題。

ワセダに異動してきて講義以外に学部生の指導をすることがほとんどなく、学部では他の先生に指導を受けた大学院生をわずかに指導している。その中でこのところ時流に乗り遅れているのだなとおもったこと。

専門的な内容について、知らないことが出てくるとまずググってしまう彼ら彼女ら。確かに相当に多くのことが書いてはあるのだが、そもそもそれが正しいのか、自分が考えている話なのか、また自分の知識と合っているのか、といったことには全く頓着しない彼ら彼女ら。

般教(一般教養)の科目ならまあそれで適当なことを読んでお茶を濁して済ませることもあるのだろうが、専門ではそうはいかない。

その結果、調べたはずなのにそれがよく分からなくて、何日も無駄に過ごしてしまう。そもそも使っている用語・記号が理解できない。その上で何か理論が展開されていても、その世界のことを知らなければ理解することは難しい。

で、ついに
研究のことについてWikipediaで調べることは罷り成らぬ
という命令を出してしまった。

これは数学というジャンルの特殊性だと言える部分もあるかもしれないが、生まれてからずっと「ググれば?」として育ってきた世代であることに気持ちが至っていなかった。

適切なテキスト=ある著者が作り上げた1つの世界=を決め、それを自分の基準としてその体系に結びつけながら学ばなくては、学問として質の高いものにはなり得ない。

ちなみに電子辞書についても同じようなことを思っているけど、昔何か書いたかも。

そうそう、先頃話題になったYoutuber小学生も「ググれば済む」みたいなことを言ってたけど、あれは周りの大人がそう言って仕込んだんだろうね。哀れな話。
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定性的な数学 [教育について]

面白い指摘を見た。
「文系なら日本語を正しく読んでほしい」
https://twitter.com/stephen_dole/status/1148152947152285696

この問題は良問である。計算して答えを出すこと自体はコンピュータが相当のところを代替する。出てきた結果をどう見るか。逆にコンピュータに何かをさせるときに、その前に予め大づかみで状況を見ておく。とても大切なちからである。

こういう言い方は叱られるかもしれないが「定性的な数学」。
大昔、島根県教育委員会に呼ばれて一席やったときにこんな題をつけたっけ。

それこそ長年「理系vs文系」みたいな分け方を徹底的に憎んで排斥したいと強く思っている自分としては、この辺が重要な指摘だと思う。

世間では

理詰めで(論理的に)考えてものを言うのが「理系」
なんとなくふわっと捉えて暗記で乗り切るのが「文系」

というように見られていると思う。もちろんそんなわけはないのだが、多くの中高生、そしてその保護者などはそう思っているだろう。

「頭がいいから理系」「出来が悪いから文系」

というような見方もあるだろう。もちろん強く否定したい。

だが世間の大半は、

「とにかく数学の公式を覚えて計算できて、○をたくさんもらえたら偉い」

という価値尺度の下、その「偉い」人が「理系」、その下に「文系」という発想。

本来数学は、言語的な要素が強い。小中高における「計算」の大部分は単なる手続きの暗記と習熟だが、「応用問題」といわれるものの多くの部分が「日本語→数学語の翻訳」である。

「文系=数学の点数が高くない」人たちの多くは、その手続き系が出来るか出来ないかの話に終始している。そんなものはコンピュータが代替してくれるのに。そして肝心の「翻訳」の部分は「無理」と思っている。

そんな状況だから当然「数学語→日本語(自然言語)」の「翻訳・解釈」も出来ない。

昨今、大学入試センター試験に変わる新しい試験のことで話が持ちきりである。
特に問題となっているのは英語だが、数学はどうなのだろうか。

私の評価は、今の大学入試センター試験の「数学」は、内容としては非常に良く出来ていると思っている。ただし制限時間は「3時間」としてほしい。今の時間なら、量を4割は減らしてほしい。問題なのは「あのレベル」の試験で「平均点を60%にせよ」という大命令である。平均が85点では入学者選抜に使えないという意見なのだが、東大を始め旧帝大などの「上位校」が利用しなければ済むことである。

時間に迫られて「考えない数学」をやるのではなく、言語としての面を前に出した教育にしないと、結局使い物にならないのだ。


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ごちゃまぜのラーニングセンター [教育について]

久々に、どうしても書きたくなった。

日本の教育問題の根本にある「学年学級制」を克服する大胆提言
「未来の学校」とはどんなものだろうか
https://gendai.ismedia.jp/articles/-/65486 

このところ、こっち方面はご無沙汰ではあるが、昔から注目していた苫野一徳氏の近著からの抜粋だという。

昔々あるところに。もう四半世紀も前のことである。

私が前職・岡山大学教育学部に赴任して初めて附属小学校の公開研究会を見に行ったときのこと。
当時、あそこにはまだ「ていふく」「ちゅうふく」というクラスがあった。
漢字で書けば「低複」「中複」。1,2年生の複式学級、3,4年生の複式学級である。

当時から岡山県内では複式学級が各地に展開されており、それを研究するためにこうしたクラス編成がしてあったわけである。自分は複式学級など見たことがなかったので、「低複」の算数の授業を見学に行った。忘れもしない算数部会所属で低複担任のF先生の授業。しかもそのクラスは20+20という、普通の複式ではあり得ない大きなクラスだったのだが。

まずは2年生にはプリントを配って(公開授業用に、予め机の中に仕込んであったのはまあよしとして)計算の復習をさせる。その裏で1年生にも別のプリントを配って曰く「今日は虫取りをしよう」。形の分類といった話だったように思うのだが、2年生は一斉に1年生の方を見る。もちろんそこまで織り込み済みだ。そして説明をしてプリント上で作業をさせる。そうしているうちに今度は2年生は無私の数を数えて計算に向かう。確かそんなことだったように思う。

同じ算数の授業で、違う内容ではあるのだが、関連した題材を選ぶ。相互の影響があることを前提にして授業設計をする。こういう世界を全く知らない私は、本当に感動したものであった。

数年後、F先生は愚息1号の1年から4年までを教務主任(実質的には副教頭格)としてご指導下さり、継いで教頭になられて異動、その後岡山大学教育学部に実務家教員として来られ、最後はまた小学校および県の施設の長としてへ戻って行かれた。ご自身曰く、算数よりも特別支援教育の方が本職だと言われたが、書道専科や家庭科専科(男性の先生である)として素晴らしい指導を愚息に施して下さった。今でも尊敬する先生の一人である。

さて。今回の苫野氏のこの抜粋記事を見て、複式学級のことを思い出した。実際に岡山大学教育学部附属小学校に通った(当時の)子どもたちに聴いてみると、複式はクラスの仲が特に良く、クラス替えでばらばらになってもその絆は消えず、複式に行かなかった子たちからはうらやましがられたのだという。

もちろんこんな大人数の複式学級の授業は難しい。あの学校では部分的に教科担任制であったから出来た部分もあるとは言える。しかし今の学校で20人クラスを目ざすのなら、最初からこのように複式で組んで担任を二人付ける方がいいのではないかと思う。

理由はよく分からないが、同小学校の複式学級はその後なくなってしまった。地方都市においては「優秀な子が集まる小学校」としての機能が強調されるようになったのかも知れない。それをとても残念に思ったことを思い出した。

苫野氏の言う「ごちゃまぜのラーニングセンター」。日本語が十分に話せない子がいたり、学習障害のある子がいたり、逆にうんと優秀な子や受験をしちゃうような子。病欠で留年してきた子の居場所にもなる。それは単に多様性があるというだけでなく、それを吸収することの出来る集団。

この発想に賛同するし、大きく取り上げられないかと期待している。
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教養教育の方向 [教育について]

相変わらず過疎過疎なこのブログ。しかし久しぶりにtw連投をやめてこちらに書いてみる気になった。

こんなtwを見たのが発端。
https://twitter.com/nobu_akiyama/status/1137606448282628096
この先生の連投に全く異議はない。

そういえば、かのラジオ先生がこんなことをつぶやいてた。
https://twitter.com/marxindo/status/1137504501793927168

ラジオ先生とほとんど同年代の私は、直接ではないがそれをよく見てきた。

残念ながら、昔の国立大学の教養部における教育には問題があったと思う。

自分に近い分野しかわからないが、昔の「教養部」の数学は「線形代数」と「微積分学」を教えてるだけだった。その重要性に文句を言うつもりなど微塵もないが、ただその授業をすることだけが目標になっていたような気がした。

これは何のために学ぶのか。その前にそもそも学問は何のためにするのか。そうしたことを等閑にして、単に普通に授業を行い、出来がいいだの悪いだのという話をしていたのではないかと思う。

それでは高校の延長に過ぎない。大変に残念なことであるが、その当時「そもそも教養教育はどうあるべきか」という議論がどの程度行われていたのかよく知らない。児美川孝一郎先生のこのシリーズ
https://jbpress.ismedia.jp/articles/-/56521
に詳しいが、「専門課程が上、教養課程は下」という見方に加え、「研究は上、教育は下」と言われてしまっては、教養教育のあるべき姿をまじめに考えようという人はごくまれだったのだろうと思う。

学生や世間は「パンキョー」と言ってバカにし、「専門科目を重視せよ」などと企業が叫ぶに至っては、「大学の大綱化」とかいうよく訳の分からない話に乗って、教養部解体・教養教育軽視の流れは止められなかったとは言える。1991年からなのだそうだ。その頃は大学教員が外国に行くことがそれほど頻繁ではなかったように思う。ちょうどその91年、ある若いが偉い先生が集中講義に来られて一緒に飲んだとき、君たちもどんどん外国に出なさい、と言って、行き先の探し方などまで教えてくれた。今ほどインターネットが普及していない時代である。

その頃に例えばアメリカの大学の様子などがもっと知れ渡っていたらその「大学改革」もずいぶん違ったのだろうと思う。

そうして完全に壊しておきながら、世間は「やはりイノベーションが大事だ」などということを言い始める。ではそのためには何をすればいいのか。

教育で言えば、学問の基礎(語学やICTなど)、学問に対する姿勢や哲学(なぜそれを学ぶのかなど)を鍛える、もしくは学ぶ体勢を教えることが必要であったわけである。

以下、自慢話になるかもしれない。自分が出た慶應義塾の理工学部は、今は少しタイトになったのかもしれないが、基本的に専門を狭くしない形で学び始める。数学科に進学するつもりでも、物理や化学を結構取らなくてはならない。専門の数学については、少なくとも自分が学生の頃で言えば、他大学と比べて1年遅れという感じである。しかしそれが今になって様々なところで役に立っていると思う。

もっと言えば、大学4年間の授業でその後最も役に立ったものは何か?と言われたときに、そのベスト5に入るものとして、「倫理学」(哲学概論に相当する内容だった)「基本体育(実技)第3クール・徒手体操」「英語(担当:タコ先生)」が間違いなく入ってくる。現在英語が(できないまでも)怖くないこと、教育に関して基本的な姿勢を常に検討する気になっていることなど、直接的に役に立っている。だが当時はそんなことはわからないし、たまたま必修科目のクラス配当で当たったものだってある。

細かく計画されたものであるはずもないが、こうした出会いが教養教育にはあるのである。

そもそも大学なんてそんなものだ。

昨今、また大学に求められるものが変わってきている。求める側は勝手なことを言う。本当は大学の側はそんなことに右往左往してはいけないのだ。だが残念ながら学問とは何かを考えもしない、入試で良い点を取ることには長けていても、ちゃんと研究をしたことがない学歴の低い人(ここでは学部卒の人をそう呼ぶ。大学名に意味はない)が予算配分の権限を握っていて、その力で大学を動かそうとしている。残念ながら学問経験の薄い官僚が、その道の碩学たる各大学の総長を呼びつけて、ふんぞり返って話を聞いている。

近年、国公立大学から私学へ異動する教員が増えているという。自分もその一人である。だがおかげさまで現職においては、「本当に必要な教養はなにか」「学問をするとはどういうことか」といった根本を考え、それを教育に活かすことができるような立場にある。自身の研究はもちろんだが、こうしたことに力を注ぐことが出来るのはやりがいがあって幸せなことである。
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そういう風に生きたい [生き方について]

日々に追われて、またFacebookやTwitterにちょこっと書いて色々なことを終わりにしていたので、なかなかブログ記事を書くに至らず。でも開けてみたら1年もご無沙汰だったなんて。


たまたま、ネット記事を見ていたら、見覚えのある署名の新聞記事だった。

上野 創さん

直接は知らない方だ。うちの政経の出身だと知ったのはさっき。でもずいぶん昔、彼の連載記事をずっと読んでた。まとめられて書籍として出ている。中古でなら手に入るようだ。

朝日新聞の記者である氏は、26歳の時に癌が肺に転移していたことを知る。他の部位からの転移な訳で、決して明るい話ではない。しかしそれを知った交際相手と即入籍した話に始まり、その生き方は頭が下がる。

長く忘れていたが、1年前の肩書きで「朝日新聞 東京本社 映像報道部次長」だそうだ。もちろん病とは闘いながら、またなだめながら、20年もの時を過ごしてこられたのだ。

すごいなと思った。自分だったらそういう生き方が出来ただろうか。今自分が同じような宣告を受けたら?

決して若くない、もうとっくに父親の年齢を超えた自分としては、そんなことを考えるひとときであった。

https://www.amazon.co.jp/%E3%81%8C%E3%82%93%E3%81%A8%E5%90%91%E3%81%8D%E5%90%88%E3%81%A3%E3%81%A6-%E6%9C%9D%E6%97%A5%E6%96%87%E5%BA%AB-%E3%81%86-13-1-%E4%B8%8A%E9%87%8E/dp/4022615249
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「そうなんだぁ~」撲滅作戦 [教育について]

気がついたらもう2ヶ月半も何も書いていないわけで、まあ早稲田に来てから変わらないとはいえ、ひどいペースに成り下がっている。まあ日々が忙しくて、義務でもなければ金にもならないブログに書いているヒマはないといえばそれっきりなのだが。

と言っているうちに、久しぶりに書きたくなったのでサイトを開けた。

そのきっかけはこのTWである。
https://twitter.com/chiki_okumaneko/status/987628777634058241

まあ魚拓を取ることもないと思うので、時間が経って切れてしまったらごめんなさい。
その内容をかいつまんで言えば
学生たちには「教科書は批判していいものだ」という発想がなく、教員が著者の仮説に異議を唱えたことに違和感を感じている、高校までに教科書は絶対に正しいと信じ、鵜呑みにしないといけないと思ってるらしい

である。

長く数学を教えてきた中で、一番問題に思うのがこの辺りである。最初にコメントしたいのは
定義を疑うこと

数学者に言うと笑われるわけだが、そもそも定義とは何かすらわかっていない者が大半なので私はこの話を時々する。
定義とは用語や概念を規定した文

これに対する異論はたくさんあることはさておき、とりあえずこの程度のことですら「知らない」。
その上で、数学者がこれを笑うのは
定義は定義なんだから、そう決めるとして話が進むのだから

である。もちろんwell-defined-ness を問うのも大切なことだが、それよりもっと手前のこと。

定義がわかるのか?


その中で重要となってくるのは、そもそも「定義がわかるとは何か」、さらに言えば「わかるとは何か」である。

見てみたらちょうど2年前の今頃に書いていた。
改めて、「わかる」ってなに?

一言で言ってしまえば、ここで大切なのは
実感が伴わければわからない

ということ。定義は文字通りの解釈だと言っても、その世界に通じていない人にとっては直感的な理解が大切である。逆にその世界に精通していれば、その世界に感覚的に入っているだろうから、文字通りだろと言ってしまっても実際はそうではなく、感覚的にわかっているのだ。

言い換えれば、公理的な形で定義というものを受け入れさせることは、実は相当多くの人にとって大きな障壁となるのである。

早稲田に来てからはその仕事はなくなったが、昔やっていた教員免許更新講習ではよく
「3とは何か」「2+3=5とは何か」
という題材を取り上げていた。
そもそも数(数字ではない。数字は単なる数の表現形態の1つだ)の概念は非常に抽象的なものである。量と結びつけながら、計算の習熟をさせながら、長い時間を掛けて子どもたちの感覚の中に養成していく作業は決して簡単なものではない。

それをせずに、「にたすさんはご」と暗記しても、それだけでは何の意味もない。こういうと「掛け算九九の暗記は意味がある」とかいう反論が来るので先に言っておくが、あからさまに覚えているのはその「丸暗記」の部分であるけれど、その背後にはたくさんの感覚的な理解に至るための指導や経験が積まれているのである。それをたくさん経験しながら結果的に「暗記する」、もしくはとりあえずある程度暗記してしまって、その経験を重ねて理解に結びつける、というのがあるべき姿である。「歌で覚える掛け算九九」なども、そこで終わっては話にならない。

数学(算数)はそんなわけで出だしからとても抽象的である。それでも成長と共に認知能力が上がっていくと、その学ぶべき抽象度も上がっていく。よく取り上げられる「9歳の壁」というのもそれであるし「中1ギャップ」というのもそれである。そこで「丸暗記」でくぐり抜けようとすると、その瞬間は上手く誤魔化せても、そのツケが必ず回ってくるのである。「暗記でなんとかなる」という方向で誤魔化しを重ねてきた人は、どこかでそれが通用しなくなると全くダメになってしまう。

「小学校の算数はよくわかったが、中学校以降の数学は捨てた」
「中学時代は優秀だったはずなのに、高1で数学を落ちこぼれて、もう見るのもイヤ」

みたいなのは、段階が上がるときに必要なフォローを受けられずに来たのだろうと思う。

さて、そこまでを前提として。これを裏返せば、感覚的にわからないものは「わからない」で良いのである。たとえば分数の加法。丸暗記させるならばその定義は
a/b+c/d=(ad+bc)/bd
である。

冗談じゃない、誰がこんなわけのわからないものを?

ずいぶん前に「分数の出来ない大学生」というのが流行ったのだが、この観点に立てば驚くことではない。「暗記」でその場はクリアしても、本質が感覚的にわかっていないと覚えられないし忘れてしまうのだ。しかし考えてみよう。上の「定義」は不自然である。横棒の上下に書くから馴染みがあって小学生でも出来ると思うかもしれないが、これをベクトルの形で
(a,b)+(c,d)=(ad+bc,bd)
と書けばその不合理性はわかるだろう。自然なのは (a,b)+(c,d)=(a+c,b+d)すなわち a/b+c/d={a+c)/(b+d) である。

ここでいう「暗記」のもたらすもう一つの害が、
これだと言われたら闇雲に信じて覚えようとする
である。とにかく覚えて答案に書くことが良しとされるので、疑いなど持たないほうが良いのだ。中学受験の指導で「考えてはいけない」と教える塾があるように聞くが、なにをか況んや。そんなことをして「トーダイ」なんぞに入ってナンボのもんだろうということは思う。

自分の担当する数学でも似たようなことがある。細かくは書かないが、たとえば「行列の積」。上の分数の加法と同じように、定義を暗記しようとしても、非常に理不尽なものである。拙著「基本 線形代数」は偉い先生との共著だが、特にお願いして第0章に「食塩水の濃度問題」(線形変換の具体例)を書かせてもらった。変換の合成から行列の積の定義が出てくることを先に扱っておき、その後で改めてきちんと定義をする。さらにその上で計算練習を重ねてながら折に触れて食塩水に戻り、上記の通り計算の習熟と内容の理解を行き来するようにしている。少なくとも講義ではそのように使っている。

その際に、行列の積の定義については最初から言ってしまう。
申し訳ない。これは非常に不可解な定義だ。納得できない、こんなものはイヤだ、と言ってもらって構わない。というよりむしろ、変だぞ、イヤだぞこんなの、と言う方が真っ当だ。「ああそうなんだぁ~」などと言ってほしくない。

ここはとても重要なポイントである。言いたいことは最初から疑ってかかれ、ということ。教科書に書いてある数学でさえもそれ。でこの場合、説明はこう続く。
もちろん、違う形で定義をしてもらっても構わない。なんでも構わないと思う。それは新しい数学だ。それはそれで素晴らしい。是非そうやって何か新しい世界を作って、役に立ててもらいたい。

「役に立つ」の意味は「世間で」でも「数学の世界で」でも何でもいいわけだが、そういう姿勢については常に言うことにしている。そして追い打ちに言う。
「そうなんだぁ、覚えとこ、計算して点が取れればいいや」という考え方は、自分はこの世の中で要らない人間であると大きな声で主張しているようなものだ。なぜならこんな計算はコンピュータが、というかフリーのサイトですぐに答えを出してくれるのだから、それが出来ること自体は意味がないのだ。そんな意味のないことを目的にするということは、自分が無駄な存在だというようなものだ。私はこれから未来を作って行く若い諸君がそんな存在であるとは思いたくない。


世の中の方向はどんどんそちらへ進んでいる。なんとかその流れを食い止めなくては。少なくとも自分の周りだけでも食い止めなくては。
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歴史の証人になった [音楽]

倉敷の出身で、プラハを中心にご活躍中のソプラノ・慶児道代(けいこ・みちよ)さんのリサイタルに行ってきた。(2018.2.2 東京文化会館小ホール)

最近は東京でマスタークラスを何度も開催され、小さいコンサートもやっておられるようなのだが、なかなか聴きに行くチャンスもなかった。2000年に滞在していたプラハでオペラを確か3つ,その後プラハに行ったときにコンサートを1つ,岡山でもコンサートを聴かせていただいたのだが,それからも10年以上の日々が経つ。自分の身体が楽器である声楽家は年齢とどう付き合っていくのかという問題もあるかもしれないななど、色々な興味も持ちながら行ってみた。
曲目はオール・チェコ・プログラム

1曲目。スメタナ「夕べの歌」全5曲。あんまり楽しくてすぐに終わっちゃった。知ってる曲なんて一つもない。ナレーターの西田多江さんの歌詞の解説もあって入りやすかったとはいえチェコ語ですぜ。でも楽しかった。本当にあっという間に終わってしまった。

2曲目。ドヴォルザーク「聖書の歌」全10曲。旧約聖書のチェコ語訳だし、もちろん知らない曲。スメタナ楽しかった~という余韻のまま、歌詞の対訳解説も読まず、ナレーターの解説を少し聞いて曲に入る。1曲目。ぐっと引き込まれる。すげえなこれ。そして2曲目が始まってすぐに動けなくなる。おいちょっと待て、ソプラノのリサイタルだぞ。コンサート会場で背中に電気が走って動けなくなるのはいつ以来だろう。そのまま喜びや神への感謝に満ちた慶児さんの表情に引き込まれ,終曲でまた背中に電気が。こんなに練れた,全身全霊を込めた歌に触れたのはもしかしたら初めてかもしれない。

休憩。立てなかった。

後半。ヤナーチェク歌劇「イェヌーファ」第2幕ハイライト。イェヌーファの独白。主人公の戸惑い、喜び、憂いと大きな変化が現れる大曲。このオペラは見たことがないのだが、ナレーターの解説がうまく情況を説明してくれたこともあるのだが、1人で完全に舞台が見える。いや違った。ピアノの石井里帆さんもすごい表現力だ。客席は完全に世界に引き込まれてしまって夢の世界だった。
そして最後。ドヴォルザーク歌劇「ルサルカ」抜粋。ピアノとナレーターと慶児さんだけで完全にオペラを再現してしまった。もちろんあるはずのない舞台が見える。これはプラハで一度見たのだけれど、その舞台が蘇ってきて、いやいや、それは違うよもっとこんな舞台かな、などなど。もうお客さんは完全にNarodni divadlo に連れていかれている。

なんと幸せな時間。

アンコール。ドヴォルザーク「新世界」2楽章より「遠き山に日は落ちて」。堀内敬三の歌詞なのだが、たぶん慶児さんの音楽の道に対する思いが重なっているんだろうな、という素晴らしい演奏。

聴きに来た人は,歴史に残るすごい場に立ち会えた幸せ者だと思う。



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体感することの大切さ [書評?]

「わかる」とはどういうことなのか


この問題については,哲学的な意味での考察は自分自身はもうすでに決着を付けてしまっている。それは

新しい情報を既に知っている知識・経験と結びつけること


である。昔から「百聞は一見に如かず」と言うように,話だけ聞いてもダメなのであって,直接見ること,実際は体験してみることが大切なのだと思う。ここからの帰結として,私は

「論理的にわかる」を認めない。


論理的に筋が通ったことを何回聞いても,その議論を暗唱できたとしても,何の意味もない。あくまで感覚的に分かるということだけが意味があると考えている。

数学という学問が嫌われている大きな理由の1つに,机上の(紙上の)議論だけに終始してしまうということがあると思う。我々数学者は「美しい数式」などと平気で言ってしまうが,それに共感ためには数式で表された事柄についての感覚的な理解が不可欠である。

さて。

数学では「素数」という概念がある。2以上の整数で,1と自分自身以外には割りきれないものをいう。考える範囲は整数の範囲なので,5は2で割り切れるとは言わず,素数となる。「いくらでも大きな素数が存在する」などという定理が大昔から知られているが,大半の人にとってそれは何の意味があるかわからないだろう。というか,無駄なものだと思うだろう。そういう気持ちを否定しようとは思わない。長い間無駄なものと思われてきたそんな数学なのだが,実はここ数十年で相当に重要な応用があることがわかってきた。

今やインターネットは社会にとって欠かせないものとなっていると言って良いだろう。その中で情報を暗号化して伝える技術がなければとても危険で使い物にならない。この暗号化の技術に「大きな素数」が重要な役割を果たしている。6=2×3とか91=7×13というように,小さい素数どうしの掛け算で表されている数については,その元の形を知ることは容易である。しかし5555449が2つの素数の掛け算になっていることを知るのはなかなか大変である(答えは2357×2357)。もちろんそのチェックのためにはコンピュータを使えば楽にはなるのだが,この素数の世界は奥深く,1万桁,2万桁の素数同士の掛け算だと最新鋭のコンピュータを使っても何万年もかかることになるらしく、それ自体が暗号となり得るのだそうである(私もその数学の原理を講義で「文系」学生に紹介している。ここでは述べないが詳しくは「RSA暗号」とググってください)。

コンピュータの性能の進化は本当に目覚ましいものがあって,もしかしたら今は何万年もかかる計算が瞬時に出来てしまうかもしれない。だとするともっと大きな素数を知っておく必要があるかもしれないのだ。

世界中のたくさんのコンピュータを動員して「大きな素数を探そうプロジェクト(GIMPS)」というのが行われている。それによって2017年末に得られた最新の成果は,23,249,425桁にも及ぶ数だそうだ。

で,ここからが本題。

そう言われても, どの程度大きな数なのか皆目見当も付かないのだが,それを実感させてくれる「書籍」が出版された。


2017年最大の素数

2017年最大の素数

  • 作者:
  • 出版社/メーカー: 虹色社(なないろしゃ)
  • 発売日: 2018/01/13
  • メディア: 単行本



Huffington Postの記事
http://www.huffingtonpost.jp/2018/01/05/gimps-m77232917_a_23324596/
に紹介されていた。その関連記事には「無茶しやがって
http://www.huffingtonpost.jp/2018/01/20/amazing-book_a_23338997/
とあるが,まさにその通りだと思う。

しかも笑ったのは,これを出した出版社・虹色社(なないろしゃ)は早稲田キャンパスの南門の目の前に居を構えているオンデマンド系の出版社なのだ。最初に取材に来た記者が初めての購入者だったとのことだが,そこから一気に人気になり,オンデマンド印刷ではなかなか大変で,てんてこ舞いしているという。そんなバカなことを本気でやる。さすが早稲田だ。そこで早速突撃購入してきた。

表紙。
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ものすごい厚み。
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最初のページ。
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なんじゃこりゃ。

少し拡大。
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これは!!! 全719ページ!!!

しかしこれで1つの数を表しているのだ。本文はこれだけである。他のことは何も書いていない。

裏表紙(後書き?)には笑った。
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ミスプリントはないの?とかくだらないことは言ってはいけない。とにかく持って実感することに意義があるのだ。

とにかく大きな数だ。


久々に「よくわかった」瞬間であった。


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卒業論文の指導 [教育について]

年が明けてずいぶん経って今頃の投稿というのも、毎年のことになってしまってしまいました。

さて。

年末から年始に掛けて、ネット上でお見かけする大学の先生たちから「卒論読まなきゃ」「卒論添削辛い」みたいな発言(悲鳴?)が相次ぎました。しかし私からすると「?」という感じなのです。

早稲田ではそういうポジションではないのですが、かつては卒業研究の指導もたくさんしてきました。ジャンルが「数学」「数学教育」であることがもしかしたら特殊な例かもしれないのですが、正直に言うと私は

卒論原稿を全部読んで添削したことがない

のです。なので先生方のご苦労がよく分からないのです。

かつての私は、学部学生は3年次から指導していました。3年次はいわゆる「原典講読」です。そこで理解するためにはアウトプットをすることが効果的であることを学び、その中で深く考えることをします。

4年の秋までには最低10ページは書いて持ってくるようにさせます。最後の数年は9月末に中間発表会を行いました(もちろんそれは宴会の種なのですがw)。

当時問題だったのはTeXの扱い。慣れないうちは思うように走りません。最初は大抵、1ページ書くのに4,5日はかかります。ところが次の1週間でもう5ページ、さらに1週間で10ページはかけるようになり、加速度的にスピードは上がります。ただしここで言うのはTeXの技量だけで、内容のことは別です。数学では学部レベルでオリジナルな卒論が書けるケースは希有で、ほとんどは自分の勉強したことをまとめることになります。最初のメインのテキストは英語、それ以外のテキストも最低3冊ぐらいは参照させますがそれは日本語、最終的に書くのは日本語でしたから、内容のことはさておき勧めることだけはできます。

その初稿の最初の2ページぐらいはしっかり読みます。てにおはも含め、頓珍漢な文章は徹底的に問い詰めます。大切なのはそこで

学生自身がいい加減な文章を恥ずかしく思う

という状況を作ることです。多くの場合、自分の書いた文章を朗読させます。その段階で論理的でない、意味の通らない文章を書くことに対して学生自身が納得できないようになる。これがもっとも重要な指導です。

論文の枠組みについてもその段階である程度決めさせる。執筆の進捗の報告のときに毎回聴くのはその枠組みを変える必要があるか?という点がメイン。細かい文章を自分で見直して校正できるようにする方が指導教員にとっても学生本人にとってもベターなのです。

残念ながら、学部生の卒業論文は、書いた本人と指導教員以外の目に触れることはほとんどない。それでも自分の人生の中の大切な一里塚として、自分に恥ずかしくない文章を書かせる。そこで言うのは、

「(大学としてはそれを要求しないのですが)卒論はハードカバーで製本せよ、そしてそれを一生自分の本棚に置け」です。

大半の学生が卒業研究の中味など忘れてしまうでしょう。しかしその時の努力は一生忘れないのです。その背表紙を見るだけで自分の学生時代が思い出せる、逆に言えば未来の自分に対して恥ずかしくない努力をせよということなのです。もちろん開けてみて読み返すこともあるのでしょう。そのとき反省することがあればそれはまたそれで良し。

我々が研究者となって論文を書くとき、もちろん第三者に校正させることはあるでしょうし、査読者などから意見をもらうことはあるでしょう。しかしそれはおまけのようなものであって、自分自身できちんと書くことが最も大切なことなのです。

その雰囲気を学生に味わわせてやれればそれでいいのではないか。

そんな調子なので、私は学生の卒論を全編読んで朱入れなどしたことがありません。

さらに言えば、論文提出後に口頭発表会があるので、それはまた指導のポイントになりますがそれについてはまたいずれ。

とまあ書き殴って今年もスタート。何回記事を書くやら。

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