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論理的に思考? [教育について]

秋学期を前半後半に分けて、「ロジカルシンキング入門」とかいう名前の授業を出すことにしている。

本当はもう少し違う題にしたかったのだけれど、ちょっとキャッチーな名前にした方がいいということで、こんな名前にしてみた。中身についてはまたいずれ。

ところで、これまでずっと算数・数学教育の研究に関わってきた中で現場の教員、特にベテランの人に顔をしかめられたことが何度もある。それは
論理的にわかる,論理的に考えるなんて有り得ない
いう私の発言である。

そもそも「考える」とか「わかる」というのは直感的なものでしかないと思っている。もし「論理的にわかる」ことが出来るのだとすれば大学1年生は解析概論の講義で全員ε-δ論法で数列や関数の極限が議論できるはずである。あれは論理だけ見れば簡単なはずである。

分からないものを考えることは出来ない。論理的に考えるとかいっても、結局形式的なパターンに落とし込むのが関の山であり、それで得られる物など高がしれている。

そんななか、次の記事を見た。

メタップス社長のブログ ロジカルシンキングの弱点を考えてみた:ロジックを超えたロジックの話 2014年6月23日 / 佐藤 航陽 http://katsuaki.co/?p=465
中でも次の一言がすべてを物語っている。
このロジカルシンキングの弱点は、他人を説得する際には絶大な力を発揮する一方で、物事の成否を見極めるには、それほど役に立たない点だと思います。他人を説得する上では有効だが、自分がうまくいくかを検討する際には頼りにならない、という何とも不思議なツールのように感じます。


結局、ロジックはコミュニケーションの手段である。そもそもロジックが発達した古代ギリシャでは、東は中国、西はイタリア・フランス、南はアフリカ、北は・・・ 色々な人々が交易をしていた。異なる言語を話す人たちが互いを理解するためのプラットフォームとして発達したのである。

ただし、物事を理解するための助けにはなり得ます。他人を説得するだけのロジックが展開できるならば、自分自身も説得できる。そうやって構造が見やすくなることは間違いない。

そしてその結果、「直感的に」理解するに至れば、その上で考えるために資することができる。しかし論理的に「考える」ことは出来ないのである。

私はずっと勝手にそう思っていたのだが、この記事を書こうと思ってWikipediaを見たところ、野矢茂樹氏の次の文章が見つかった。
「論理的思考力」とか「ロジカル・シンキング」といった言葉がよく聞かれるように、論理とは思考に関わる力だと思われがちである。だが、そこには誤解がある。論理的な作業が思考をうまく進めるのに役立つというのは確かだが、論理力は思考力そのものではない。思考は、けっきょくのところ最後は「閃き」(飛躍)に行き着く。(中略) 思考の本質はむしろ飛躍と自由にあり、そしてそれは論理の役目ではない。(中略) 論理力とは思考力のような新しいものを生み出す力ではなく、考えをきちんと伝える力であり、伝えられたものをきちんと受け取る力にほかならない。
(新版 論理トレーニング,産業出版, 2006年,引用by曽布川, 2014.8.28)


実際、「ロジカルシンキング」に関するアドヴァイスをみても、たとえば この記事を見ても、論理はコミュニケーションだとはっきり認識している。

そもそも「logical thinking」という英語は一般的ではないとWikipediaは言う。さらに(もう少し原義を調べなくてはいけないが)、thinkという英語の日本語訳は「思う」が最初に来るはずだ。そこで「考える」を出す人は少ないだろう。この辺りも厳密に見ながら、いわゆる「ロジカルシンキング」の入門に関連する授業を展開する予定である。


付記: ネタはそれほど変わっていないということで、昔のブログ記事を紹介。
     「ノートを取るということ」 http://takuya-sobukawa.blog.so-net.ne.jp/2014-03-29
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