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卒業論文の指導 [教育について]

年が明けてずいぶん経って今頃の投稿というのも、毎年のことになってしまってしまいました。

さて。

年末から年始に掛けて、ネット上でお見かけする大学の先生たちから「卒論読まなきゃ」「卒論添削辛い」みたいな発言(悲鳴?)が相次ぎました。しかし私からすると「?」という感じなのです。

早稲田ではそういうポジションではないのですが、かつては卒業研究の指導もたくさんしてきました。ジャンルが「数学」「数学教育」であることがもしかしたら特殊な例かもしれないのですが、正直に言うと私は

卒論原稿を全部読んで添削したことがない

のです。なので先生方のご苦労がよく分からないのです。

かつての私は、学部学生は3年次から指導していました。3年次はいわゆる「原典講読」です。そこで理解するためにはアウトプットをすることが効果的であることを学び、その中で深く考えることをします。

4年の秋までには最低10ページは書いて持ってくるようにさせます。最後の数年は9月末に中間発表会を行いました(もちろんそれは宴会の種なのですがw)。

当時問題だったのはTeXの扱い。慣れないうちは思うように走りません。最初は大抵、1ページ書くのに4,5日はかかります。ところが次の1週間でもう5ページ、さらに1週間で10ページはかけるようになり、加速度的にスピードは上がります。ただしここで言うのはTeXの技量だけで、内容のことは別です。数学では学部レベルでオリジナルな卒論が書けるケースは希有で、ほとんどは自分の勉強したことをまとめることになります。最初のメインのテキストは英語、それ以外のテキストも最低3冊ぐらいは参照させますがそれは日本語、最終的に書くのは日本語でしたから、内容のことはさておき勧めることだけはできます。

その初稿の最初の2ページぐらいはしっかり読みます。てにおはも含め、頓珍漢な文章は徹底的に問い詰めます。大切なのはそこで

学生自身がいい加減な文章を恥ずかしく思う

という状況を作ることです。多くの場合、自分の書いた文章を朗読させます。その段階で論理的でない、意味の通らない文章を書くことに対して学生自身が納得できないようになる。これがもっとも重要な指導です。

論文の枠組みについてもその段階である程度決めさせる。執筆の進捗の報告のときに毎回聴くのはその枠組みを変える必要があるか?という点がメイン。細かい文章を自分で見直して校正できるようにする方が指導教員にとっても学生本人にとってもベターなのです。

残念ながら、学部生の卒業論文は、書いた本人と指導教員以外の目に触れることはほとんどない。それでも自分の人生の中の大切な一里塚として、自分に恥ずかしくない文章を書かせる。そこで言うのは、

「(大学としてはそれを要求しないのですが)卒論はハードカバーで製本せよ、そしてそれを一生自分の本棚に置け」です。

大半の学生が卒業研究の中味など忘れてしまうでしょう。しかしその時の努力は一生忘れないのです。その背表紙を見るだけで自分の学生時代が思い出せる、逆に言えば未来の自分に対して恥ずかしくない努力をせよということなのです。もちろん開けてみて読み返すこともあるのでしょう。そのとき反省することがあればそれはまたそれで良し。

我々が研究者となって論文を書くとき、もちろん第三者に校正させることはあるでしょうし、査読者などから意見をもらうことはあるでしょう。しかしそれはおまけのようなものであって、自分自身できちんと書くことが最も大切なことなのです。

その雰囲気を学生に味わわせてやれればそれでいいのではないか。

そんな調子なので、私は学生の卒論を全編読んで朱入れなどしたことがありません。

さらに言えば、論文提出後に口頭発表会があるので、それはまた指導のポイントになりますがそれについてはまたいずれ。

とまあ書き殴って今年もスタート。何回記事を書くやら。

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