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卒論指導について [教育について]

今はこの話から割と遠い時期なので吠えておく。

年末から年明けにかけて「卒論読むのが大変だ」「朱入れが」という先生方の嘆きを多数目にする。正直に言えば、指導を失敗しているなと思う。さらに言えば朱入れをすることで学生の指導をした気になっておられる先生方も散見する。残念ながら酷い間違いである。

学生は文章の(卒論の)書き方など知らない。早いうちに、就活が落ち着いたらすぐにでもその分野の典型的な論文の型を教え込むべし。卒論の一部になりそうなことを原稿用紙2枚程度で良いから取り敢えず書かせ、テニオハのレベルまでこっちの納得する文体になるまで直させる。そこで必要なのは、代わりに書いてやってはいけないということである。朱入れをするのもまあありかもしれないが、できれば避けたい。文句だけ言いながら、ほんの少し「口頭で」指示しながら、学生の側からこちらの我慢がなるものを出させる。朱入れと称して書き換えてしまうなどもってのほか。そんなことをしても何の力もつかない。あくまでも「口頭で」だ。

続いて卒業研究の報告の議論の導入部分になりそうなことを最低10枚くらいは書かせる。その段階で「文体について指導しただろ」「論理の意味が分からない」と厳しくケチをつける。論理が通らない場合には、口頭でメモ書き(板書)をさせながら語らせるようにすると通るようになる。その結果、そういう文体が当たり前になる。

今の世の中、当然ワープロソフトなどを使うだろうから、切り貼りは容易。まだ「手書きで」とかいう人がいるとしたら(その是非はここでは問わない)あとから清書させればよい。だから卒論の一部を書き始めるんだ、と作業をさせながら文章の書き方を身に着けさせる。

どの程度時間がかかるかについては学生自身の色々な意味でのキャパに依るが、それが出来てしまえば、あとは口頭で内容の議論をするだけで良いので、指導する側はずいぶん楽。結果的には時間の節約になる。

もちろんそれだけで完璧な卒論にはならないかもしれない。しかし全文を読んで事細かに指示することは時間の無駄である。はっきり言って、ごく一部の例外を除いて学部の卒論など書いた本人と指導教員と同じゼミの関係者くらいしか読まない。成果物が完璧な文章になることはほとんどの場合自己満足。学生の自己満足ならそれでいい。学生自身が期限内に満足するまで書けば良い。気を付けなくてはいけないのは指導教員の自己満足。ついつい時間を割いて朱入れして、もしくは相当多くを書き換えてやることなどしている先生方をよく見る。しかしそれでは学生は言われた通りに書くだけでそこから何かを学ぶケースは少ない。言い方を変えれば指導教員が卒論を書いてやってるわけで、誰のためにもならない。

学生の「自己満足」は言い方を変えれば「自身の尺度に対する満足」。もちろん大多数の学生のそれは稚拙で脆いものだ。しかし内容についても文章の型についても、この作業を重ねていくうえでその尺度自体が成長していく。そしてその経験を踏まえて、卒業後も長い時間を掛けてそれを鍛えていかれるようになるのだ。

夏休みなどの時期に学生のために時間を割くのを厭う先生方のお気持ちはわかる。だが対時間という意味のコスパは、その成果も含めて遥かに良い。秋学期が始まってすぐでもいいだろう。このやり方は学生自身の力を使ってその学生を指導するという効率のいいものなのだ。


>>>追記。という話をtwitterに連投して、ここに修整して書いてみたのだが、よく見たら昨年こんな話を書いてた。中味は全く一緒だった。自分もボケた。恥ずかしい。

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