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校歌&応援歌・早慶戦(歴史だとか昔話を交えて) [早稲田と慶應]

新年度が始まった。我が社でも入学式が行われている。ちょうど大きな会堂が建て替え工事に入っていて全体の大きな入学式は出来ないが、例年通り学部ごとの入学式が行われ、メインキャンパスは新入生歓迎行事でごった返している。

私のオフィスは正門から入って一番奥にあることから、その前をステージに見立てて色々なパフォーマンスが行われている。にぎやかだからというだけでなく、どうも仕事に身が入らない。それは日に何回か応援部のステージがあるからである。ついつい見に行きたくなってしまう。

早稲田に来て4年目が始まった。面白いのは、赴任の最初の説明会の時に「是非校歌を覚えて下さい」といわれたことである。私は慶應義塾に長く学んだので、その最大のライバルかつ最も愛する早稲田の校歌・第1応援歌「紺碧の空」ぐらいはおよそ知っていたのだが、教職員に対して改めてそう言われるのは珍しいのではないかと思う。曰く
校歌には早稲田の精神がすべて詰まっている
全くその通りである。慶應義塾は創立者・福澤諭吉先生がそもそも啓蒙家であって、たくさんの書物を残している。それに対して早稲田の創立者・大隈重信侯は、福澤先生と同じように佐賀藩の藩校で教頭まで務め「漢学・蘭学だけではダメだ、これからは英学だ」と目覚めて英語に通じるようになり、通訳をする中で政府で重用されるようになったのだが、文字を書くのが得意でなかったようで、書物がほとんど残っていない。一方演説の名手であって全国に知られていたのである。で、その建学の精神を伝えるものとして校歌が重要な役割を果たしているというのだ。

少し長くなるがその早稲田大学の校歌の歌詞を上げてみよう。

早稲田大学校歌(明治40年) 作詞:相馬御風
1.都の西北 早稲田の杜に   
  聳ゆる甍は 我が母校
  我らの日頃の 抱負を知るや
  進取の精神 学の独立
  現世を忘れぬ 久遠の理想
  輝く我らの 行く手を見よや

2.東西古今の 文化の潮
  1つに渦巻く 大島国の
  大なる使命を 担いて立てる
  我らが行く手は 窮まり知らず
  やがても 久遠の理想の影は
  遍く 天下に 輝き布かん

3.あれ見よ かしこの常磐の森は
  心のふるさと 我らが母校
  集まり散じて 人は変われど
  仰ぐは同じき 理想の光
  いざ 声揃えて 空も轟に
  我らが母校の 名をば讃えん

1番は学苑の成り立ち。2番は世界における学苑の位置とこれから進む道。3番は卒業生へのメッセージ。

これで完璧である。それ以上のものは要らない。

一方で、慶應義塾塾歌はどうだろうか。

慶應義塾塾歌(昭和15年) 作詞:富田正文

1.見よ 風に鳴る 我が旗を!
  新潮寄する暁の
  嵐の中に旗めきて
  文化の護り 高らかに
  貫き立てし 誇りあり
  立てんかな この旗を
  強く 雄々しく 立てんかな
  ああ我が義塾
2.往け 涯りなきこの道を!
  究めて いよよ遠くとも
  我が手に取れる篝火は
  叡智の光 明らかに
  行く手正しく 照らすなり
  行かんかな この道を
  遠く 遙けく 行かんかな
  ああ我が義塾
3.起て 日は巡る丘の上
  春秋深め 揺るぎなき
  学びの城を受け継ぎて
  執る筆かざす 我が額の
  徴の誉れ 世に布かん
  生きんかな この丘に
  高く 新たに 生きんかな
  ああ我が義塾

1番は自分たちの現状。2番は進んでいく方向。3番は心に刻む志。

早稲田と比べるとコントラストに欠けるのは否めない。ではなぜこのような違いが起きたのだろうか。

そこでよく見てもらいたい。早稲田大学校歌は明治40年。それに対して慶應義塾塾歌は昭和15年。30年以上の開きがある。実は他の東京六大学の校歌を見ると、明治は大正9年、立教は大正10年、法政は昭和5年(ちなみに東大は校歌がない)。なぜ慶應義塾がこんなに遅いのか? 実はそれは今の塾歌に先立つ旧塾歌(明治37年作)があったのである。
旧塾歌 音源はこちら
聞いてみるといかにも古臭い。それで作り直したというのが真相のようである。(ちなみに今回調べたところ、明治には現在歌われている山田耕筰の作曲による校歌の前にもう一つ校歌があったようである)。

そこで、古臭い旧塾歌の下、慶應義塾にどのようなスクールソングがあったのか。いくつか挙げてみよう。
・「若き血」 作詞・作曲:堀内敬三 (昭和2年)
・「丘の上」 作詞:青柳瑞穂 作曲:菅原明朗(昭和3年)
・「Blue Red and Blue !」 作詞:矢部章夫 作曲:橋本国彦 (昭和6年)
・「幻の門」 作詞:堀口大学 作曲:山田耕筰 (昭和8年)
・「踊る太陽」作詞:白石鉄馬 作曲:增永丈夫(=歌手・藤山一郎)(昭和10年)
・「三色旗の下に」作詞:藤浦 洸 作曲:藤山一郎 (昭和15年)
「若き血」はずっと歌い継がれる第1応援歌である。塾歌は知らなくても若き血を知らない塾員はいないだろう。「丘の上」は今でも慶早戦に勝ったときに歌う歌。次の3曲は最近は歌う機会は減ってきたようだがオシャレな曲である。校旗について歌った “横文字名前“の「Blue Red and Blue !」。「幻の門」は山田耕筰の作曲技巧が凝りすぎて若干歌いにくいものの、慶應義塾の最初の正門であった今の東門に関するエピソード、そしてこの曲を機に?東門が「幻の門」と呼ばれているのは面白い。「踊る太陽」は当時としては相当に「ハイカラ」な歌であっただろう。同じく校旗について歌った「三色旗の下に」は今でも「3」回の攻撃時に歌う曲である。少なくともこれらの曲は40年前に神宮球場で歌っている。そんな歴史を経て、それでもやはり塾のメインの歌が必要だということで作られたのが今の塾歌である。

対する早稲田。この頃に作られた応援歌としてはなんと言っても
・「紺碧の空」 作詞:住 治男 作曲:古関 裕而 (昭和6年)
である。同じ頃には
・天に二つの日あるなし 作詞:西條 八十 作曲:中山 晋平 (昭和3年)
・大地を踏みて 作詞:小出 正吾 作曲:草川 信 (昭和5年)
という曲があるようで、ビッグネームによる作だが、少なくとも私は聞いたことはないし、譜面も入手できていない。

そこで勝手に昭和10年頃の早慶戦を考えてみる。もう既にそれだけで充分に時間的にも空間的にも世界を体現している「校歌」と自分たちこそ覇者であると宣言した「紺碧の空」を擁する早稲田に対して、雄々しい「若き血」とオシャレな数曲プラス古臭い「(旧)塾歌」。早稲田は「校歌」「紺碧の空」が偉大すぎて他の曲が不要だったのに対し、慶應はモダンな曲で対抗したものの芯がはっきりしなかったのである。

その流れか戦後になっても慶應はたくさんの応援歌を作っている。「我ぞ覇者」(昭和21年)、「慶應讃歌」(昭和22年)、「ヴィクトリーマーチ」(昭和24年) 、「オール慶應の歌」(昭和25年)など。神宮球場では毎回の攻撃ごとに違う応援歌を歌うという状況であった(少なくとも私はどれも神宮球場で歌ったことがある)。昭和40年に早稲田の「コンバットマーチ」、対抗して翌41年に慶應が「ダッシュケイオウ」を作り上げてから応援のスタイルも徐々に変わっていったものの、早稲田は大人数の「校歌」「紺碧」「コンバット」による圧倒的な応援、慶應義塾はオシャレな曲を並べて対抗というムードだったと私は思う。

昭和50年代以降になってチャーリー石黒、タモリ、サンプラザ中野(くん)といった早稲田出身の人たちによる曲が色々と増えて、早稲田の応援もグッと華やかになったことや、平成に入ってからはチャンスパターンを軸とした応援に変わってきたことも一応触れておく。

まあそんな中で、早大生諸君には校歌は1番だけでなく是非3番まで覚えて欲しい。紺碧の空は黙っていても覚えるだろうから、出来れば「早稲田の栄光」も。塾生諸君には「若き血」は良いとして、出来れば「塾歌」「慶應讃歌」まで在学中に覚えて欲しいと思う。それが後々で財産になるから。

付記:ここでは「早大校歌」「塾歌」は何も見ずに書いておりますので、誤字がありましたらお許しを。

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