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体感することの大切さ [書評?]

「わかる」とはどういうことなのか


この問題については,哲学的な意味での考察は自分自身はもうすでに決着を付けてしまっている。それは

新しい情報を既に知っている知識・経験と結びつけること


である。昔から「百聞は一見に如かず」と言うように,話だけ聞いてもダメなのであって,直接見ること,実際は体験してみることが大切なのだと思う。ここからの帰結として,私は

「論理的にわかる」を認めない。


論理的に筋が通ったことを何回聞いても,その議論を暗唱できたとしても,何の意味もない。あくまで感覚的に分かるということだけが意味があると考えている。

数学という学問が嫌われている大きな理由の1つに,机上の(紙上の)議論だけに終始してしまうということがあると思う。我々数学者は「美しい数式」などと平気で言ってしまうが,それに共感ためには数式で表された事柄についての感覚的な理解が不可欠である。

さて。

数学では「素数」という概念がある。2以上の整数で,1と自分自身以外には割りきれないものをいう。考える範囲は整数の範囲なので,5は2で割り切れるとは言わず,素数となる。「いくらでも大きな素数が存在する」などという定理が大昔から知られているが,大半の人にとってそれは何の意味があるかわからないだろう。というか,無駄なものだと思うだろう。そういう気持ちを否定しようとは思わない。長い間無駄なものと思われてきたそんな数学なのだが,実はここ数十年で相当に重要な応用があることがわかってきた。

今やインターネットは社会にとって欠かせないものとなっていると言って良いだろう。その中で情報を暗号化して伝える技術がなければとても危険で使い物にならない。この暗号化の技術に「大きな素数」が重要な役割を果たしている。6=2×3とか91=7×13というように,小さい素数どうしの掛け算で表されている数については,その元の形を知ることは容易である。しかし5555449が2つの素数の掛け算になっていることを知るのはなかなか大変である(答えは2357×2357)。もちろんそのチェックのためにはコンピュータを使えば楽にはなるのだが,この素数の世界は奥深く,1万桁,2万桁の素数同士の掛け算だと最新鋭のコンピュータを使っても何万年もかかることになるらしく、それ自体が暗号となり得るのだそうである(私もその数学の原理を講義で「文系」学生に紹介している。ここでは述べないが詳しくは「RSA暗号」とググってください)。

コンピュータの性能の進化は本当に目覚ましいものがあって,もしかしたら今は何万年もかかる計算が瞬時に出来てしまうかもしれない。だとするともっと大きな素数を知っておく必要があるかもしれないのだ。

世界中のたくさんのコンピュータを動員して「大きな素数を探そうプロジェクト(GIMPS)」というのが行われている。それによって2017年末に得られた最新の成果は,23,249,425桁にも及ぶ数だそうだ。

で,ここからが本題。

そう言われても, どの程度大きな数なのか皆目見当も付かないのだが,それを実感させてくれる「書籍」が出版された。


2017年最大の素数

2017年最大の素数

  • 作者:
  • 出版社/メーカー: 虹色社(なないろしゃ)
  • 発売日: 2018/01/13
  • メディア: 単行本



Huffington Postの記事
http://www.huffingtonpost.jp/2018/01/05/gimps-m77232917_a_23324596/
に紹介されていた。その関連記事には「無茶しやがって
http://www.huffingtonpost.jp/2018/01/20/amazing-book_a_23338997/
とあるが,まさにその通りだと思う。

しかも笑ったのは,これを出した出版社・虹色社(なないろしゃ)は早稲田キャンパスの南門の目の前に居を構えているオンデマンド系の出版社なのだ。最初に取材に来た記者が初めての購入者だったとのことだが,そこから一気に人気になり,オンデマンド印刷ではなかなか大変で,てんてこ舞いしているという。そんなバカなことを本気でやる。さすが早稲田だ。そこで早速突撃購入してきた。

表紙。
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ものすごい厚み。
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最初のページ。
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なんじゃこりゃ。

少し拡大。
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これは!!! 全719ページ!!!

しかしこれで1つの数を表しているのだ。本文はこれだけである。他のことは何も書いていない。

裏表紙(後書き?)には笑った。
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ミスプリントはないの?とかくだらないことは言ってはいけない。とにかく持って実感することに意義があるのだ。

とにかく大きな数だ。


久々に「よくわかった」瞬間であった。


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卒業論文の指導 [教育について]

年が明けてずいぶん経って今頃の投稿というのも、毎年のことになってしまってしまいました。

さて。

年末から年始に掛けて、ネット上でお見かけする大学の先生たちから「卒論読まなきゃ」「卒論添削辛い」みたいな発言(悲鳴?)が相次ぎました。しかし私からすると「?」という感じなのです。

早稲田ではそういうポジションではないのですが、かつては卒業研究の指導もたくさんしてきました。ジャンルが「数学」「数学教育」であることがもしかしたら特殊な例かもしれないのですが、正直に言うと私は

卒論原稿を全部読んで添削したことがない

のです。なので先生方のご苦労がよく分からないのです。

かつての私は、学部学生は3年次から指導していました。3年次はいわゆる「原典講読」です。そこで理解するためにはアウトプットをすることが効果的であることを学び、その中で深く考えることをします。

4年の秋までには最低10ページは書いて持ってくるようにさせます。最後の数年は9月末に中間発表会を行いました(もちろんそれは宴会の種なのですがw)。

当時問題だったのはTeXの扱い。慣れないうちは思うように走りません。最初は大抵、1ページ書くのに4,5日はかかります。ところが次の1週間でもう5ページ、さらに1週間で10ページはかけるようになり、加速度的にスピードは上がります。ただしここで言うのはTeXの技量だけで、内容のことは別です。数学では学部レベルでオリジナルな卒論が書けるケースは希有で、ほとんどは自分の勉強したことをまとめることになります。最初のメインのテキストは英語、それ以外のテキストも最低3冊ぐらいは参照させますがそれは日本語、最終的に書くのは日本語でしたから、内容のことはさておき勧めることだけはできます。

その初稿の最初の2ページぐらいはしっかり読みます。てにおはも含め、頓珍漢な文章は徹底的に問い詰めます。大切なのはそこで

学生自身がいい加減な文章を恥ずかしく思う

という状況を作ることです。多くの場合、自分の書いた文章を朗読させます。その段階で論理的でない、意味の通らない文章を書くことに対して学生自身が納得できないようになる。これがもっとも重要な指導です。

論文の枠組みについてもその段階である程度決めさせる。執筆の進捗の報告のときに毎回聴くのはその枠組みを変える必要があるか?という点がメイン。細かい文章を自分で見直して校正できるようにする方が指導教員にとっても学生本人にとってもベターなのです。

残念ながら、学部生の卒業論文は、書いた本人と指導教員以外の目に触れることはほとんどない。それでも自分の人生の中の大切な一里塚として、自分に恥ずかしくない文章を書かせる。そこで言うのは、

「(大学としてはそれを要求しないのですが)卒論はハードカバーで製本せよ、そしてそれを一生自分の本棚に置け」です。

大半の学生が卒業研究の中味など忘れてしまうでしょう。しかしその時の努力は一生忘れないのです。その背表紙を見るだけで自分の学生時代が思い出せる、逆に言えば未来の自分に対して恥ずかしくない努力をせよということなのです。もちろん開けてみて読み返すこともあるのでしょう。そのとき反省することがあればそれはまたそれで良し。

我々が研究者となって論文を書くとき、もちろん第三者に校正させることはあるでしょうし、査読者などから意見をもらうことはあるでしょう。しかしそれはおまけのようなものであって、自分自身できちんと書くことが最も大切なことなのです。

その雰囲気を学生に味わわせてやれればそれでいいのではないか。

そんな調子なので、私は学生の卒論を全編読んで朱入れなどしたことがありません。

さらに言えば、論文提出後に口頭発表会があるので、それはまた指導のポイントになりますがそれについてはまたいずれ。

とまあ書き殴って今年もスタート。何回記事を書くやら。

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