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Wikipedia 禁止令 [教育について]

「識者」と言われる人の中に、
大学など無駄だ。そこで得られる知識はネットで十分得られる
などと言い切ってしまう人がいる。

ずいぶん無責任なことを言うなというのが私の感想である。

そんな「識者」が生まれた頃にはインターネットなんかなかっただろう。彼らはいわゆる学校教育(もしくはそれに類する物)を通じて自分の知識体系を作り上げてきている。

前職の同僚の言葉を借りれば
知らないものは見えない
彼は麻酔科医。放射線科医である令室の言だそうだ。色々な技術を持って身体の内部を投影しても、それを読み取る(読影)のためには、色々な疾患についての知識がないと見落としてしまうと。

ネット上にある情報は玉石混淆だが、仮にそれが全部正しいものであったとしても、そもそも自分の中に知識体系がなければそれを取り込むことは出来ない。

閑話休題。

ワセダに異動してきて講義以外に学部生の指導をすることがほとんどなく、学部では他の先生に指導を受けた大学院生をわずかに指導している。その中でこのところ時流に乗り遅れているのだなとおもったこと。

専門的な内容について、知らないことが出てくるとまずググってしまう彼ら彼女ら。確かに相当に多くのことが書いてはあるのだが、そもそもそれが正しいのか、自分が考えている話なのか、また自分の知識と合っているのか、といったことには全く頓着しない彼ら彼女ら。

般教(一般教養)の科目ならまあそれで適当なことを読んでお茶を濁して済ませることもあるのだろうが、専門ではそうはいかない。

その結果、調べたはずなのにそれがよく分からなくて、何日も無駄に過ごしてしまう。そもそも使っている用語・記号が理解できない。その上で何か理論が展開されていても、その世界のことを知らなければ理解することは難しい。

で、ついに
研究のことについてWikipediaで調べることは罷り成らぬ
という命令を出してしまった。

これは数学というジャンルの特殊性だと言える部分もあるかもしれないが、生まれてからずっと「ググれば?」として育ってきた世代であることに気持ちが至っていなかった。

適切なテキスト=ある著者が作り上げた1つの世界=を決め、それを自分の基準としてその体系に結びつけながら学ばなくては、学問として質の高いものにはなり得ない。

ちなみに電子辞書についても同じようなことを思っているけど、昔何か書いたかも。

そうそう、先頃話題になったYoutuber小学生も「ググれば済む」みたいなことを言ってたけど、あれは周りの大人がそう言って仕込んだんだろうね。哀れな話。
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定性的な数学 [教育について]

面白い指摘を見た。
「文系なら日本語を正しく読んでほしい」
https://twitter.com/stephen_dole/status/1148152947152285696

この問題は良問である。計算して答えを出すこと自体はコンピュータが相当のところを代替する。出てきた結果をどう見るか。逆にコンピュータに何かをさせるときに、その前に予め大づかみで状況を見ておく。とても大切なちからである。

こういう言い方は叱られるかもしれないが「定性的な数学」。
大昔、島根県教育委員会に呼ばれて一席やったときにこんな題をつけたっけ。

それこそ長年「理系vs文系」みたいな分け方を徹底的に憎んで排斥したいと強く思っている自分としては、この辺が重要な指摘だと思う。

世間では

理詰めで(論理的に)考えてものを言うのが「理系」
なんとなくふわっと捉えて暗記で乗り切るのが「文系」

というように見られていると思う。もちろんそんなわけはないのだが、多くの中高生、そしてその保護者などはそう思っているだろう。

「頭がいいから理系」「出来が悪いから文系」

というような見方もあるだろう。もちろん強く否定したい。

だが世間の大半は、

「とにかく数学の公式を覚えて計算できて、○をたくさんもらえたら偉い」

という価値尺度の下、その「偉い」人が「理系」、その下に「文系」という発想。

本来数学は、言語的な要素が強い。小中高における「計算」の大部分は単なる手続きの暗記と習熟だが、「応用問題」といわれるものの多くの部分が「日本語→数学語の翻訳」である。

「文系=数学の点数が高くない」人たちの多くは、その手続き系が出来るか出来ないかの話に終始している。そんなものはコンピュータが代替してくれるのに。そして肝心の「翻訳」の部分は「無理」と思っている。

そんな状況だから当然「数学語→日本語(自然言語)」の「翻訳・解釈」も出来ない。

昨今、大学入試センター試験に変わる新しい試験のことで話が持ちきりである。
特に問題となっているのは英語だが、数学はどうなのだろうか。

私の評価は、今の大学入試センター試験の「数学」は、内容としては非常に良く出来ていると思っている。ただし制限時間は「3時間」としてほしい。今の時間なら、量を4割は減らしてほしい。問題なのは「あのレベル」の試験で「平均点を60%にせよ」という大命令である。平均が85点では入学者選抜に使えないという意見なのだが、東大を始め旧帝大などの「上位校」が利用しなければ済むことである。

時間に迫られて「考えない数学」をやるのではなく、言語としての面を前に出した教育にしないと、結局使い物にならないのだ。


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ごちゃまぜのラーニングセンター [教育について]

久々に、どうしても書きたくなった。

日本の教育問題の根本にある「学年学級制」を克服する大胆提言
「未来の学校」とはどんなものだろうか
https://gendai.ismedia.jp/articles/-/65486 

このところ、こっち方面はご無沙汰ではあるが、昔から注目していた苫野一徳氏の近著からの抜粋だという。

昔々あるところに。もう四半世紀も前のことである。

私が前職・岡山大学教育学部に赴任して初めて附属小学校の公開研究会を見に行ったときのこと。
当時、あそこにはまだ「ていふく」「ちゅうふく」というクラスがあった。
漢字で書けば「低複」「中複」。1,2年生の複式学級、3,4年生の複式学級である。

当時から岡山県内では複式学級が各地に展開されており、それを研究するためにこうしたクラス編成がしてあったわけである。自分は複式学級など見たことがなかったので、「低複」の算数の授業を見学に行った。忘れもしない算数部会所属で低複担任のF先生の授業。しかもそのクラスは20+20という、普通の複式ではあり得ない大きなクラスだったのだが。

まずは2年生にはプリントを配って(公開授業用に、予め机の中に仕込んであったのはまあよしとして)計算の復習をさせる。その裏で1年生にも別のプリントを配って曰く「今日は虫取りをしよう」。形の分類といった話だったように思うのだが、2年生は一斉に1年生の方を見る。もちろんそこまで織り込み済みだ。そして説明をしてプリント上で作業をさせる。そうしているうちに今度は2年生は無私の数を数えて計算に向かう。確かそんなことだったように思う。

同じ算数の授業で、違う内容ではあるのだが、関連した題材を選ぶ。相互の影響があることを前提にして授業設計をする。こういう世界を全く知らない私は、本当に感動したものであった。

数年後、F先生は愚息1号の1年から4年までを教務主任(実質的には副教頭格)としてご指導下さり、継いで教頭になられて異動、その後岡山大学教育学部に実務家教員として来られ、最後はまた小学校および県の施設の長としてへ戻って行かれた。ご自身曰く、算数よりも特別支援教育の方が本職だと言われたが、書道専科や家庭科専科(男性の先生である)として素晴らしい指導を愚息に施して下さった。今でも尊敬する先生の一人である。

さて。今回の苫野氏のこの抜粋記事を見て、複式学級のことを思い出した。実際に岡山大学教育学部附属小学校に通った(当時の)子どもたちに聴いてみると、複式はクラスの仲が特に良く、クラス替えでばらばらになってもその絆は消えず、複式に行かなかった子たちからはうらやましがられたのだという。

もちろんこんな大人数の複式学級の授業は難しい。あの学校では部分的に教科担任制であったから出来た部分もあるとは言える。しかし今の学校で20人クラスを目ざすのなら、最初からこのように複式で組んで担任を二人付ける方がいいのではないかと思う。

理由はよく分からないが、同小学校の複式学級はその後なくなってしまった。地方都市においては「優秀な子が集まる小学校」としての機能が強調されるようになったのかも知れない。それをとても残念に思ったことを思い出した。

苫野氏の言う「ごちゃまぜのラーニングセンター」。日本語が十分に話せない子がいたり、学習障害のある子がいたり、逆にうんと優秀な子や受験をしちゃうような子。病欠で留年してきた子の居場所にもなる。それは単に多様性があるというだけでなく、それを吸収することの出来る集団。

この発想に賛同するし、大きく取り上げられないかと期待している。
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