SSブログ

オンライン授業・走り始めてみて [教育について]

なんとかオンライン授業をスタートさせることができた。これでなんとかなるだろう。

次に考えるのはこの「コロナ明け」の講義。オンライン授業もものによっては悪くない。ただし混在したら学生には迷惑になるかもしれない。どういう状況になるかわからないが、とりあえず自分の授業は内容とそれに対応する進め方でおよそ3種類ぐらいに分けられるのでそれぞれについて考える。

その1.一方通行系。ガチな数学など。オンラインでは基本はライブ開講。話すペースは難しく学生の側はずっと見てるのはきつい。なので途中休憩を入れながら60分ぐらいで終わってあとは質問タイム。時間が足りない分はその続きは動画作成。ライブ分も録画し全面オンデマンドも可とする。

このパターンは、対面講義が始まっても、教室で同時に送信&録画するという手があるので、もしかしたら今のパターンをそのままやるかもしれない。教室で生で受ける学生はそれで。1限の授業を寝床で受けたい学生はそれで。オンデマンドがいい学生はそれで。

その2.作業や鑑賞の混在系。作業を増やす。参加の負担は一方通行系よりは軽いと思われるので、大体80分以上はやる。録画はする。ネタは事前または事後にLMSに公開する。毎回レポートを課すのは対面のときと同じなので負担増にはならない。

この形式は対面でやるときにはオンラインはパスしたい。オンラインではこのパターンが準備する側にとって一番きつい。

その3.アクティブ系。講義→ディスカッション→ライティングの3段階を基本。講義は動画を作ってオンデマンド。ディスカッションは多少気は遣う部分はあっても基本対面授業と変わらずできそう。ライティングは対面のときよりも充実できそう。2コマ続きなので時間に余裕はある。

この形式はスピーキングまでは言わないが、学生がしゃべるのがメイン。講義をオンデマンドにしてしまうのは対面が始まってもやるべきかもしれない。ライティングのトレーニングの質を上げるのが今後の目標。あまりやりたいとは言えないが、オンラインのままでもいいかもしれない。ただし折衷や同時並行、例えば一部の学生がオンラインで出席、なんてのは面倒。

なお当方,この春学期は12週しかないのに15週分の教育をというので、少々詰め込みになっていることは仕方がない。
nice!(0)  コメント(0) 

結局のところ、パワポ嫌い [教育について]

新型コロナウィルスの感染拡大を受けて各大学ではオンライン授業を行うことになり、多くの先生が多大なる労力を注ぎ込んでやっておられる。そうした状況で情報交換の場がたくさんあるのはネット時代としては大いによいと思う。

そこでの情報提供・議論を見ていて、長年考えていたことについて割合はっきりしたような気がしている。それは
講義とプレゼンの違い
である。

Powerpointのようなプレゼンテーションソフトは,自分自身も学会発表などでは使う。そこではたとえば
数式も含めて1ページには最大6行ぐらいまで,文字数も50字ぐらいまで。2分以上話す

といったことを考えていて、それ自体は自分自身が見る側になると当たり前のことだと思う。
もし学会等で「欧文の論文をそのままスライドにあげて、アンダーラインを引いて」なんていう講演があったら、自分は始まった瞬間に目を閉じてしまう。

それは学会講演は第1にその場で知識の伝達を目的とするものだからだ。新しく得られた知見を聴衆に知ってもらうことが重要であり、時間の制限があるわけだから細部を端折ることは当然である。わかった気になってもらって興味を持ってもらうことが主目的だ。ちなみに卒論論の発表会などもその延長で考えさせる。その場では「講演」「ハンドアウト」「スライド・板書」「論文」は全部違うものであるべきで、それらはしっかり構造化されているべきである。このことについては、旧ブログにしっかり述べた。

プレゼンテーションのあり方 https://takuya-sobukawa.blog.ss-blog.jp/2010-09-10

もう10年前なのかと思うが、基本的には全く変わっていない。進化している部分はあるけれど、基本は同じである。

だが大学で行う学生相手の講義のときには、それでは全くだめな気がしている。例えば教科書が決まっててそのまま行う講義。読めば済む学生はそれでもいいかもしれない。それでも教室に学生を集めるのは何のためだろう。もし知識を伝達するだけでいいのなら、昨今先生方が準備しているオンライン授業が日本中から受けられればそれで済むということである。実際、それでいいと思っている人がたくさんいるようで、一頃はMoocなんていう話が盛り上がってた。大学なんてそれで十分というなら、このところの先生方の努力の大半は全く無駄だということになるが、自分はそうは思わない。

では講義の存在意義は何だろうか。

早稲田に来てから、いわゆるオンデマンド授業を提供している。基本的な枠組みは同僚のT教授が10年以上前に作ってくれたところでそれに乗せてもらっているわけだが、その中の講義ビデオのことが常に気になっている。オンデマンド講義は、動画を録画して受講者が好きなときに好きなように見ることを前提にしている。特に自分は英語で多くの講義を出している。教室で英語で授業をするのは何でもないが、ビデオに自分のグダグダな英語でしゃべるのはどうにも恥ずかしい。なのでPowerpointのアニメーションを使って教室での板書(よりもいいもの)を構築し、そこにコンピュータに読ませた英語の解説を貼り付けている。はっきり言って作成にはものすごい労力がいる。だがそこで学会発表のような薄いスライドに解説をつけるのなら、授業の意味はない。教科書を書いて配って、それを読んで問題を解け,テストを受けろで済むことになる。それでは「早稲田大学教授・曽布川拓也」の存在意義はない。

ところがこのところ議論されている話を見ていると、学会発表のようなスライドを作ってオンライン動画を録画することを良しとする話が聞こえてくる。もちろん非常時だし、慣れていない先生方への緊急的なアドヴァイスとしては大いに意義があると思うのだが、自分からするとそれが講義といえるのか?しかもその存在意義があるのか?と思えてならない。もちろん内容に高いオリジナリティがあるのならそれでもいいかもしれないが、必ずしもそうとはいえないだろうし、それは当然である。

生身の人間が講義を行うこと。できれば目の前で。

ソクラテスの問答法とか、ガリレオ=ガリレイの「教えることはできない」とか、そのあたりに基本的なスタンスを置く自分としては、教師が学生の前で議論を展開しているその姿=滑らかに進行していることもあり、難渋することもあり、その進め方にはいろいろなものがある=を見せることにのみ意味があるのではないかと考えている。

学生にも生身の人間としてそれを受け取ってほしいと思っている。だからノートテイクを重視する。事前にワープロで作った講義ノートを配るぐらいなら、最初から教科書を買わせて読んどけで済む話である。板書も途中は理路整然と書いていても最終形はグチャグチャになるかもしれない。だがその経過を共有することに意義があるのだ。そうでなければ、例えば「線形代数」なんて5つぐらいのグレードの講義動画をどこかのサーバにあげておけばいいことになる。Khanアカデミーの存在意義はそれだ。

その英語版の講義動画は、道具はPowerPointなのだが、それを使って「曽布川拓也」という数学屋が考え、悩み、理解していく過程を共有させるものを作ろうとしている。だからそもそも目的が違うのを無理して使っているので大変なのだ。

昔から「パワポ嫌い」を公言している。そうしたパワポ的なもの=学会発表スライドのようなものの見方・考え方=に蝕まれたくないというのがその真意なのだ。生身の人間が学問をしそれを伝えようとする。受け手である学生には、単にそれを「覚えてテストに書く」などということを目的にするのではなく、それを参考にしながら自分で考え、自分のスタイルを作り、やがて新しいものを生んでいかれるようになってもらいたいのだ。

これからオンラインでライブ講義を重ねていく。板書はPowerPointに書くのだが、書きながら手書きでしゃべる。そしてその板書は保存し、受講者に公開する。しかしそれ自体にはたいした意味はない。そんなのは受講者諸君が自ら考え、自らの世界を作るための手助けになればいいな、という程度のものである。これまで何回かやってみたけれど、最終形だけをみるとグチャグチャなものになっている。

でもそれでいいのだ。いわゆるパワポ的なものには絶対にしない。嫌いである。

nice!(0)  コメント(0) 

この広告は前回の更新から一定期間経過したブログに表示されています。更新すると自動で解除されます。