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あんた、サヨクでしょ? [社会について]

結構多くの人が知らないのが、
共産主義は民主主義の1つの形である
ということである。さらに「民主主義を科学的に進めたものが共産主義である」という(ここで脊髄反射せずに最後まで読めよ)。

ここで言う科学的ってのは「理屈で進める」ということである。だから素晴らしいものであって、人類はすべてそういう方向に行くべきだというのが共産主義者たちの発想である(らしい)。

だから理屈で割り切れないこと、たとえば宗教だとか天皇制だとか王政だとか貴族だとかを否定するようなことをする。民族主義などもってのほか。

逆に、宗教であるとか民族であるとか、そのほかにも科学(理屈)では割り切れないことがある、とする立場も当然ある。そこで、少し強い定義であるが、前者を「左翼」後者を「右翼」と呼んでみようと思う。

この定義に則れば私は完全な右翼である。専門がすべてを理屈で構成している数学であっても、というよりそうであるからこそ、世の中には理屈では割り切れないものがたくさんあることを肯定する。天皇制のようなものも然り。自身は日本的な宗教観(神社で初詣をし、寺に墓参りに行き、教会で結婚式をするというような)の人間であるが、それぞれの宗教を大事にしたいと思っている。

世の中が理屈で割り切れないのは当然である。その例として挙げたいのが、毛沢東の大躍進政策、とりわけ四害駆除運動である。 雀は米を食べるから害だ、だから駆除しろといって徹底的に駆除した結果、それまで雀が食べていた害虫が異常発生し、米の収穫量が激減したという話は有名だ。そんな簡単な理屈では世の中は(自然は)済まないわけで、結局共産主義体制自体が悉く崩壊したのは歴史が示すとおりである。

そんなことを踏まえながらも、実は私は昔から「アベちゃんはサヨクだ」と言ってきている。旧ブログでも第1次安倍政権についてそれを書いている(ここで言うのは、歴代自民党政権の施策は社会主義的な施策であったとかそんなことではない)。

で、このところ聞こえてくる施政方針にもそういうものが見えるので、改めて述べたい。
大学在学中は授業料無償化し卒業後納付 首相に提言提出 http://www3.nhk.or.jp/news/html/20170522/k10010990911000.html
NHKnewsWeb2017年5月22日 16時28分
自民党の教育再生実行本部は、大学などに在学している間は授業料を無償化し、卒業後に収入に応じて国に納付する新たな制度の検討などを盛り込んだ提言をまとめ、安倍総理大臣に提出しました。

まあそもそも言葉が間違っていて「在学している間は授業料を無償化」というのは意味をなしていない。百歩譲って「授業料納付を猶予」だと思うのだが。まあそれはともかく、どうしてこういう理屈だけで考えた策が出てくるのだろうと呆れている。ちょっと考えただけでもすぐに問題点が思いつく。

1)それで当座各大学に入ってくるはずだった学生の授業料分は国が建て替えるのか。
2)誰がどうやってその授業料を取り立てるのか。
3)一定収入以上得た者というくくりを考えているというが、その基準は何か。また経済情勢が変わったときにそれをどう維持していくのか。

まさかそのために役所を大きくするの? 大きな政府ってのはそれこそ左の方の主張じゃないのかな。そこまで考えた議論には到底見えない。雀の駆除レベルのことではないのか。


役人の忖度 [社会について]

最近流行っている?言葉の1つが「忖度」。こんな言葉を知らなかった人も多いかもしれないし、また辞書を引けばとかいう話もあちこちに解説があるのでそこは任せることにする。

今なぜこれが注目されているか。それはアベちゃん近辺のスキャンダル?絡みで出てきた言葉だから。で、最近まで役人組織にいた者として、またもっと広く一般に、日本の組織の問題として整理しておきたい。

まず言われている“スキャンダル”に着目した形で言うならば、

役人や政治家が金品をもらってその贈り主に有利になる何かをしたりしろと命じたりしたらそれは明らかな収賄となり、これは犯罪。

で、巷ではそうでないときの話が議論されているようだ。

政治家にしろ上級役人にしろ、自分の職掌のすべてを完全に把握することはできない。できれば凄いだろうけれど、ほとんどできないし、ある意味ではすべきでないかもしれない。命令を出すだけでもそう簡単にはできない。だからその下の実行部隊が「上」の意向をくんで企画立案し、(一応)お伺いを立てて決裁を得てからことを起こす。

それを「忖度」という表現で済ませるならばその通りである。そうでなければ大きな組織は回らないわけで、それ自体を悪く言うのは妙な理想主義者だけである。

ただし気になるのは、たとえば国立大学法人は、文部科学省の意向を「忖度」してことを進める。学問の立場から見ればすべきでない「改革」であっても、お上の意向はこうであるらしいからそちらへ向ける。実際、違う方向を出そうとする必ずお咎めが来るので、そうせざるを得ないのである。しかしあくまでも各大学が「自主的に行った」という体がとられるので、お上が責任を負うことはない。知っている話で言えば、鳥取大学が早々に教員養成の看板を下ろしたことなど、後々禍根を残すことはわかっているのだが、「自主的」なのでお上は知らん顔だ。

 過去の収賄事件を見ると、常に争点になるのは「職務権限」の問題だ。明文的に職務権限がないのなら、それは罪に問われないことになっているようだ。「政権党の実力者」「議会のドン」みたいなのも、職務権限で言えば何もないということで、お咎めは受けないことだったらしい。近年法律が変わって、そんな感じのことで辞任せざるを得なくなった閣僚がいたが、結局刑事罰を追及する話にはならなかったらしい。

だが問題は「忖度」によって行われた事案だ。まず最初に確認しなくてはならないのは、職務権限の有無ももちろん大切だが、それがどんなことであれ、最終的に責任を取るのは政治家でなければならない。なぜなら役人組織(公務員)は主権者たる国民・住民のためにあるものであり、その有り様を審査するのは選挙以外にないから。

しかしここが難しい。「忖度」で行った事案に問題が生じたとき、その責任は誰が取るのか。本来的には政治家であるべきだ。少なくとも「忖度」がその政治家の意図に沿ったものであるならば。しかし役人組織は、政治家に責任を取らせ(ようとす)ると後々どういうお咎めが来るのかを考えている。だから役人組織はそうならないように、与党政治家を守ろうとする。政治家は知らん顔をする。それは自分たちの立場や組織を守ろうとする本能のようなものだ。

だから役人組織は色々なことを隠そうとする。一方、政治家は(明言するかどうかは別として)役人のせいにして責任逃れをしようとする。

ここまでが基本的な構図であると私は考えている。そして残念ながらここまでに責めるべきところはあまりみあたらない。

 昨今話題になっている問題に関して。偉い政治家の周辺に動きがあるとする。本来権限は何もないはずの政治家の家族がやっていることであっても、その政治家の影をみて役人が(勝手に?)「忖度」しているというのが話題になっているわけだ。政治家は選挙を経ているとしても家族は違うじゃないか、みたいな議論はさておく。いずれにせよ起きたことに対する責任はその政治家にあるはずだ。

 まあそう言い切ってしまうと、役人に政治家を追い出すためのパワーを与えることになってしまう。その通りだ。特に政権交代が少ない我が国で数年前にせっかく起きた政権交代では、時の与党が役人を悪者扱いしたもんだから、サボタージュで抵抗されて二進も三進も行かなくなってしまった。あれは役人パワーで政治家がつぶされた例だと思う。アメリカのように政権交代が起きれば上級から中級まで多くの役人が入れ替えられる。その方が健全だというのは確かにそうだ。

 最近色々聞こえてくる話の中で、その「忖度」が偉い政治家に近い人に利益をもたらすような話だった点は確かに問題である。官有地払い下げにおいて、不当な値下げが行われたのなら、それが「忖度」のなかで行われたことであったとしても最終的な責任はその政治家にあるだろう。金品の授受がなかった(逆向き?)としても、少なくとも国会の場で「一切関係ありません。何かあったなら議員辞職する」とか息巻いちゃったのだから、それはそうしてもらうしかない。

 一方、一見似たような別の事案も話題になっているようだ。また偉い政治家の近辺の人が「得をする」ような状況になっているのだという。その構図で何でもかんでも一緒くたにするのは賛成できない。こっちでは「土地の無償提供」が話題になっているが、地方ではそういうことはたくさんある。そうまでしても事業を興したい地域はたくさんある。最終的にそれが地域のためになることであれば、ある種の投資だろう。むしろ問題は、許認可の恣意的な運用なのではないか。許認可の塊みたいなところに長くいたので、それを個人的な事情で運用されるとなるとそこには違和感を持つ。

 こういうスキャンダル?話については、個人的な感情はさておき、あくまで一般論に則ってものを言おうと思う。今の政府は、教育についても軍備についても国を滅ぼす方向へ進めていると思うし、国会軽視も甚だしく、それは主権者たる国民を冒涜することになっているので、そういう人には反対したいけれど、話はきちんと分けて考えたい。それは明治14年の政変のなかでつまらないことで政府から追放された大隈さんを思ってのことでもある。まああれがなければ今の自分の職がないのかもしれないが。



「江戸っ子の定義」を見ていて [社会について]

「江戸っ子」という表現をよく聞く。先日もネットで「東京のこの盛り場の写真を見て、どこだか当てろ」というゲームをやって、全問正解したら「すごいですね、江戸っ子だ」みたいな評価になった。しかしそれにひどく違和感を感じた。

自分は東京23区内ではあるが東海道品川宿の先に生まれ、同じく23区内ではあるが中仙道板橋宿の先に育ったので、どう考えても江戸の生まれ育ちではない。

そもそも「江戸」の範囲はこんな区域だったという。
http://www.viva-edo.com/edo_hanni.html
ここには「朱引」「墨引」という二つの境界がある。今住んでいるのは江戸市中であるけれど、生まれはこの境界のずっと外側である。

で、昔から言われていた「江戸っ子」というのは
江戸市中に生まれ育って3代目
というのが基本のようで、さらに「神田明神の氏子」だとかいうような条件を課す人もいるという。

それって何なんだろう。それにそもそもなんでそんな概念が登場したのだろうか。

同じようなことを感じることがこれまでもいろいろあった。29歳まで東京に暮らし、それから遠く離れた西国に住むことになって最初よく言われたのが
東京の人って都会的ですよね、すごいですよね
という意味の分からない話である。そして
六本木とか銀座とか渋谷とか、すごいですよね
などという話になる。まあ確かに「すごい」とは思うが、東京に暮らしていたとき、そんなに繁華街に出歩いていたわけではない。学校・職場と家を往復するだけだと、確かにそういう繁華街は電車では通るが、毎日そこに行くわけでもない。むしろそういうところには行かないのが日常だ。だから繁華街を知らない、街を知らないという意味では十分「田舎者」であったと思う。

ところで自分の経験からして、東京の街の中心部に生まれ育った人は、他の人に向かって「あの人って田舎者だよね」みたいなことはあまり言わないのではないかと思う。例えば浅草に生まれ育った友人が何人かあるが、彼らの口からそういう言葉を聞くことはまずない。

では誰が他人を田舎者呼ばわりするのか。

私は、田舎から出てきてちょっと都会のムードに慣れた人が、それにまだ慣れていない人を揶揄していうのではないかというように見ている。自分は本当は田舎者だということを隠そうとしているのではないか。なので西国に住んでいたときには
「都会・東京」は田舎から出てきた人同士が鎬を削っている場所だ
とよく言っていた。実際そんな気がする。

さて、この状況は当然江戸時代にも唱えられていただろう。大都会・江戸に出てきた田舎者が都会に慣れて、あとから来た田舎者に対して優越感を感じていたのに対して、そんなのつまらないよ、という発想がこの「江戸っ子」の概念に込められていたのだと思う。3代前から江戸の生まれだとすれば、「大都会・江戸」の状況は当たり前であり、
「俺は知ってるぜ、お前知らないだろう、この田舎者」みたいな野暮なことは言わない
のが本当に都会に生まれ育った人の発想だったのではないか。

大都会でない街が悪いとも思わない。私の第二の故郷・岡山を田舎だと扱き下ろす人はいるけれど、自分はもし岡山に移住せず、ずっと東京にいて教員などをしていたら、繁華街もあまり知らず、おいしい酒の飲み方もよくわからず、暗いままの人生を過ごしていたのだろうと思う。あの位の街のサイズで繁華街からタクシーで1000円で帰れるような環境だったから得られたことはたくさんある。東京では山手線からタクシーで5000円以上かかるようなところに住んでいたから、そこではいつも終電を気にしていただろう。コンサートホールだって遠かったから、いい催しが行われていても見に行かなかっただろう。少し前「大都会・岡山」とか揶揄する人がネットにあふれていたが、あの程度だからいいこともたくさんあったわけで、まあくだらないことをいう人たちだなと思っていた。

もちろん自分の場合、その街で諸先輩にかわいがっていただき、色々なことを教えてもらったことも忘れてはならないのだが、そんなこんなを思うと、自分はアクティブに活動できる年代に東京から離れていたことをとても幸せに思っている

さて、ここからが本題。

商売柄、いわゆる優秀な学生たちをたくさん目にしている。「早稲田はバカだ」とか言う人もいるが、世の中の全体から見たら優秀である。確かに優秀なのだが、正直に言って面白くない。みんな東京圏に生まれ育ち、子どものころから塾通いをし、もしかしたら中高一貫校に進んでガリガリ受験勉強をしてきたような連中ばかり。誰を見ても同じようなやつばかりだ。彼らを見ていると、その「田舎から出てきて先に都会に慣れ、あとから来た田舎者をバカにする」種族と似たような匂いがする。いつまで経っても「小学校のときの塾の話」を引きずっているような。

こいつらが日本の中枢に座ったらダメだろうなと思う。日本国民が全部東京圏だの大都市圏に住んでいるわけではない。そうでないところで活躍している人たちがあって初めて国が成り立っているのだ。

こっちはそんなつまらない奴らを叩き潰して、面白くて優秀なやつに仕立てて世の中に出すのが仕事である。まあ今の所属セクションはその点で力をふるうことが難しくはあるのだけれど。

何が江戸っ子か?という話を見ながら、こんなことを考えている。

これが今年の初投稿か。

黒のリクルートスーツがなぜいけないか [社会について]

新しい記事を書く根性がなくて、TwitterやFacebookにちょこちょこっと書いておしまいにしている。どうも身構えてしまう傾向が最近強くて困るのだが、SNSだとすぐに埋もれてしまうので、今日は消えないように書いておこうと思う。

3月1日から今年度の大学生の就職活動が始まっている。キャンパスでは合同会社説明会が行われており、連日多くの学生が来ている。

我が社はまあ高名な大学であるのは間違いない。そしてそのブランドを信じて企業が従業員を採用しようとする現状について、悪く言う資格もないし、その辺りについてここで論じる気もない。

で、そのブランド維持のために?会社説明会の入り口では学生証チェックを行っている。それについてもなんともいえない気持ちだが、そういうことをしている大学もたくさんあるだろうし、それ自体はさておく。

問題は次だ。これは我が社の話かどうかは不明なネット情報である。紺のスーツで来た就職希望者に、受付を務める学生(?)が、「黒のスーツでない」という理由で入場を拒んだという話。なんでも「説明に来てくれた企業の人に失礼だ」だそうだ。これを聞いてとても暗い気持ちになってしまった。

この件の問題点について、いくつかにわけて述べよう。

1) そもそも西洋で発達したスーツ姿において、昼間の活動で黒のスーツは着ない。着ることがあるとすれば葬儀の時だけだ。つまり喪服である。こういう姿についての一つの模範である、英国皇太子が黒のスーツを着ているのを見たことがあるだろうか。基本は濃紺またはグレーである。略礼装のさらに簡略版としての黒スーツはあり得る。しかしそれはパーティでのことかと。ついでに言うと、日本の結婚式でよく見かける「黒スーツ白タイ」は不気味に見えるらしい。昼間(正確には午前中)の礼装はモーニングコート。縞々ズボンに銀タイが正式。それに似せた簡略版ならば、黒スーツ銀タイだろう。

2) ここは日本だ、などという愚か者の意見は聞かない。そんなヤツは我が社のブランドを当てにして説明会に来るような大手企業(おそらく海外にも何らかの意味で展開しているであろう)の仕事は務まらない。

3) 日本中どこへ行っても、「リクルートスーツは黒」と売り場で書いてある。しかしこれは単なる「トレンド」「みんながやってるから」である。ここでいう「みんな」は「日本で就職活動をしている、右も左もわからない大学生」である。自ら情報をきちんと集めよ。

4) 「そんなことを言っても会社の人がどう思うかわからない」という人もいるだろう。「リクルートスーツは黒だろ」「お前何で黒じゃねぇんだ」とかいうヤツがリクルーターをしている会社には未来はないからそれで良いと思う。なぜならそのリクルーターがなぜ「黒」と思っているかの理由が上に述べたとおり「ドメドメ」で「自ら考えない」無知だからだ。そんなヤツに未来を切り開くための採用活動でフロントを務めさせるような会社は、先が長くない。

5) 「黒が一着あれば冠婚葬祭全部行ける」上記の通り気をつけることもあるが、まあそれはその通り。しかし別に濃紺で相手に失礼なことはない。葬式に濃紺で黒タイで問題ない。結婚式にも濃紺に明るい柄のネクタイ、ポケットチーフぐらい差せば問題ない。

6) 「年寄りはうぜえ、黙ってろ」って言ってもいいけれど、役員面接に出てくるのは大抵年寄りだよね。そこで「君はなぜ黒じゃなくて紺を着ているのか?」と聞かれたらラッキーだよ。「グループ面接では司会役を買って出て目立て」とか言うんだろ。もしそれで目立ったのならちょうど良いじゃん。逆に「みんなと一緒じゃないこと」にネガティブ評価を下すような年寄りが牛耳ってるような会社ならその会社の未来はない。老害が蔓延しててすぐに居心地が悪くなるから、不採用になったとしてもラッキーだと言って良いだろう。

7) おまけ。「おっさん、おめえは自分じゃ黒のスーツを着ないのか?」いいえ、着ます。ただし柄物。おっさんは柄物。それでも昼間は少々考えちゃうけど。普通無地の黒は着ない。でももっている。通夜・葬式用。もしくは昼の礼服・モーニングコートの簡略版であるディレクターズスーツ、さらに簡略&周りに合わせるコンサート衣裳に。ただし白タイはもう締めない。銀タイ。

就職活動には必勝法も公式も正解もない。それでみんな疑心暗鬼になって目立たないようにしようとするのかもしれないけれど、世間で言われている「一流企業」に入ったところで3割は3年で辞めちゃうわけだし、まさかあそこが?という会社がつぶれている世の中。人生の門出で周りの様子見をしてちゃいけないとおもう。

有識者会議、からのぉ~ [社会について]

子育て支援ということに関連して、保育士の確保が難しくなっていることがよく報じられている。
前職では保育士養成に関連するところだったわけで、起きていることはよくわかる。

そんなところでこういう報道を見た。

保育士確保へ 専門家会議で対策検討始まる
NHK ニュースWeb 11月9日 12時37分
http://linkis.com/www3.nhk.or.jp/news/kl9bl
(すぐに消されてしまうので、魚拓を添付)
hoikusi.jpg

思い切り呆れてしまったというのが率直な感想である。
賃金を上げるなど処遇を改善
が急務なのはその通り。だが
保育士の魅力を伝える対策が必要だ
には、呆れてしまった。

そういう審議会にお集まりのセンセがたの誰よりも、実際に保育士を志し、また実務を経験した人たちはその魅力についてよく知っている。だからこそ、その仕事をしたわけで、それが長続きしなかったのは待遇が悪く、離職率が高く、その結果過重労働が増えているという悪循環によるものである。
それなのに今頃何を言っているのか。

この報道からだけで、専門家のセンセの会議の様子が見て取れるようである。もし違ってたらどうぞ批判して下され。

1.メンバーは偉い人が並んでいる。しかし色々なジャンルから偉い人を連れてくるので、それぞれはほとんど互いに面識がなく、その場で初めて名刺交換をする。

2.役人の筋書きが大体出来ている。もちろん審議時間も決められており、そのシナリオに従って発言内容が決まる。

3.誰かが「それおかしいんでねぇの?」と思っても、いわゆる有識者同士のことだから、よその分野の人にずけずけ文句を言ったりしない。

たぶんこの会議でも、「保育士の処遇改善」「職務の魅力についての広報」という題目が上がってたのだと思う。で、後者についても「場を読む誰か」がその発言をしたのだろう。そしてそれを否定する人もなかったのだと思う。

そして議長役がその発言をとりあえず肯定し、議事録に載る。だからこうやって報道される。

ちょっと考えれば、そんな広報に金を使うことなど無駄もいいところ、その予算だって待遇改善に回せよ、と思うだろうけれど、実際に何をするか、どうお金を使うかということについて「有識者」のセンセ方はあんまり考えない。

でもお役人は出来た議事録に縛られる。だからそこに予算をつけて何か事業を行う。といったって広告代理店に丸投げするのが関の山。

絶対に反対だね、こんなの。こんなのに3000万も使うとかいうんだったら、100万ずつ保育士の給料に上乗せしてやったら30人分だよ。それっぽっちだってないよりずいぶんマシだ。

このようにして、非効率な無駄な政府ができあがっていくのがよくわかる一件だった。

重ねて言う。
お上のする「保育士の魅力を伝える対策」なんて不要。
金の無駄。



ああ、ついに言っちゃったか [社会について]

お上から、国立大学文系学部を整理せよというようなお達しが来て、特に大学教育関係者の間では議論が沸騰している。対象となっている大学・学部の教員は大変だと思う。京大のように強く切り返せるところはまだしも、そうでない多くの大学は大変なことになっているだろう。

他人事のように言っているが、つい2年前まではそういうところに在籍していたわけで、その辛い立場は大いにわかる。それで色々と駄記事を連ねてきた(これとかこれとかこれとか)のだが、実は一方であちこちで毒も吐いている。
https://twitter.com/sobukawa/status/608062228521226240
http://sobukawa-in-waseda.blog.so-net.ne.jp/2015-06-02

本当はもっとすごい毒をこっそり吐いていたのだが、どこに書いたか見つからない。それを書き直す前に、こんな記事を見てしまった。

和田秀樹 サバイバルのための思考法
「エリートを育成するため大学はどう変わるべきか」2015.06.16
(日経BizCollege)
http://www.nikkeibp.co.jp/atcl/column/15/306192/061600010/?P=1

こっそり私が述べていたのは次のようなことである。
国立大学「文系」学部はこれまで学生に対してどんな教育をしてきたのか?

残念だが長いスパンでみて何もしてこなかったというのが正直なところではないだろうか。私の前職は一応「文系」に分類されているが、職業訓練でもあるし、丁寧に力をつけさせたつもりである。だが一般にはどうか。前職において、他の「文系」学部の学生と接する機会もあった。そこそこ受験業界では評価されている(ベネッセで偏差値64とある)のだが、彼ら・彼女らはその地頭レベルから1つも成長しているように見えない。成長したのはバイト先の経験やらサークル活動での何やらによるもののようである。決して大学教育で何かをしてもらったようには見えない。

その大学でも、大学として学生に何かをしなくてはならないということはわかっていて、近年色々なことをしようとしていたのは確か。しかし長い間、大学教員それぞれが学生をきちんと教育してきたかと言えば決してそうとは言えないだろう。実際、入試制度の改革は非常に熱心に議論するくせに、学生教育には及び腰の教員もたくさん見てきた。若い方ではなくて、私よりずっと年上の教員だが。

そのなかで「蟷螂の斧」を振り上げて一生懸命やってきたつもりだ。だがあくまで多勢に無勢。そうこうしているうちに、お上から最後通牒を突きつけられちゃったというのが私の感覚である。

「文系」の学問が必要なのはその通り。そのレベルの維持のためには多数の学生がいた方がいいのも確か。でも学者にならない大半の学生をどう教育したのか、その彼らが世の中に出て役に立つような能力をつけさせてやったのかという点で胸を張れる教員は、少なくとも私より上の世代には少ない。

和田氏のこの記事は、そんな私のイライラ感をズバリ書いてしまっている。巷間で聞こえてくるのは「文系」の学問の有用性やその存続の必要性を高らかに叫ぶ声だ。そんなことは当たり前でわかっていることだ。確かにG型・L型などというどうしようもないアイディアもあったが、あんなのでなくても「世の中で役に立つ能力をつけさせたか」については反省がいる。「そもそも大学というのはそんなことをするところではない」みたいなことを言う「権威」の方々の老害もこうやって明らかになってきているのだ。

大変残念なのだが、時すでに遅しの感がある。自分が当事者でなくなって、しかもこういう話が出てからこんなことをいうと後出しじゃんけんのように言われるかもしれないが、長年やってきたことである。

尊敬できる教育を施している(と信じられる)たくさんの「文系」学部の先生方を存じ上げている。だからこういう悪態をつくのは控えようと思ってきた。私が悪態をついてもそういう先生方に対して失礼なだけだし、何も建設的でないからだ。だから和田氏の論説は私からすると「あ~あ、言っちゃった」という感じである。

少なくとも自分はこの点で直接的な批難を受けないポジションにいる。しかし安住できるという話ではない。自らこの批判を吹き飛ばすように切り込んで行っているのだ。これまでもずっとそうだったし、これからもずっとそれで行く。

文革とな? [社会について]

このところ、お上の言い始めた「文系学部改革」とかいう話しについて議論が聞こえてくる。
これを一言で表した増田聡先生のこのTWには笑った。

「文系学部改革」は「文革」と呼ぶのがよろしい
https://twitter.com/smasuda/status/604880597127827456

あまりに核心を突いていて驚いてしまった。まさにその通りだ。

私自身もこの「改革」に対して思ったことを少し綴ってみた。
http://togetter.com/li/829651

もちろん、このお上の言い分は亡国への道であるというのは間違いない。40年遅れで中国に追随してるという意見にも笑った。

そこで非常に残念に思うのは、この「改革」に対する反対意見があまりにも弱いのだ。いや弱いのではない、あまりにもまともなのだと言うべきかもしれない。それらのほとんどは、このような「文系」の学問の持っている意義を懇懇と言い聞かせているような物だ。その中身は全くごもっとも。歴史的な背景をたどったり、外国の事例を引いてきたりしている。それには何の文句もない。

しかしこれらの意見はこの「改革」を打ち出した連中には届かない。彼らはそれを目にしても知らん顔。理解しようともしないのだ。ここに大きな問題点が明らかになっていることに,多くの人々が気づいていないような気がする。すなわちそれは
こういうまともな意見を理解する能力を養うのが「文系」の学問を修めること
だということだ。そしてこの「改革」を打ち出した連中というのは、「文系」の大学学部を卒業した人たちではないのか?

大昔からいってきていることで雑な物言いではあるが、およそ「文系」という学部においてこれまでちゃんと教育をしてきたのだろうか。この「反対意見」を出している人の多くは現役の大学教員であり、「改革」を打ち出してきた連中を教育したのはもっと上の世代だという反論もあり得るだろう。しかしそこを自ら「改革」してきたのか?

「文系」というジャンルの学問は必要である。無くしてしまうことによって、本当に中国の「文革」の二の舞になることは見えている。だから個人としては何とかしたい。しかし今のこの危機的な状況は、自分たち(の先輩)がやってきた教育の成果なのではないか。

「自分はこのことを考えてやってきた・やっている」という大学教員が数多くいることも知っている。そういう方々は何だかんだで生き残れるだろう。だが全体としてこういう流れになってしまうことを食い止めたいとは思うけれど、そこまでの大きな力にはならない。

全く関係ない話しだが、先日ロシアに行ってきた。Steklov数学研究所という世界最高峰の研究所の1つで集会に出たのだが、国際研究集会と銘打つ割にはほとんどの講演がロシア語。重鎮の大先生はたくさんいてアクティブに活動しておられ、若い人たちも少しはいるのだが、中堅からベテランにかかるぐらい=80年代に研究活動を開始したような人たち=がほとんどいない。その世代は旧ソ連の末期に国外に流失してしまったのだろうと思う。

そんな偉い先生方と同じだというのはおこがましいが、長く務めた国立大学から異動してきた自分も、もしかしたら旧ソ連から流失したような立場だったのかもしれないという気がしてきた。だとすれば、せっかく与えられた今のポジションで頑張らなくてはならない。

柳美里氏に対する原稿料の未払い問題を見ていて [社会について]

このところネット上で、芥川賞作家の柳美里氏が、雑誌に書いた原稿料を何年ももらっていないという話をネット上で説明し始めたことについての波紋が広がっている。

最初はこの記事から始まっている。
http://blog.goo.ne.jp/yu_miri/e/5d4d7a14d483a42ec4d3ec53a1f02cc5

その後、詳しい経緯についてこんなインタビューも上がっている。
http://getnews.jp/archives/686281

巷間では「ブラックだ」などという話で持ちきりである。まあその指摘はその通りで、それを蒸し返したり加勢したり反論したりする暇はない。

相手方の雑誌の編集長の言い分も挙がっている
http://www.tsukuru.co.jp/tsukuru_blog/2014/10/post-190.html
のだが、それを読んでいて、自分の昔の状況を思い出していた。

2005年,旧日本銀行岡山支店の建物を改修してオープンした「ルネスホール」http://renaiss.or.jp/about.html

単なる貸館ではなく、ここが文化の発信基地になるように、というコンセプトに共感し、安価で気軽に聞くことのが出来るコンサートシリーズを、でオープン直後から毎月行わせてもらった。

素晴らしいスポンサーもたくさん付き、ホール側も全面バックアップで足かけ7年、合計60回ものコンサートシリーズをプロデュースさせてもらった。多くの奏者に賛同してもらい、本当に雀の涙ほどのギャラで出演してもらった。

もちろん自分は手弁当であったがそれでも赤字は累積した。昔、パチンコ屋さんの親分がインタビューで
3万円持ってきてください、2万5千円は景品でお返しします。差額はその時間の遊び賃としていただきます
と言っていたが、それを思うとトータルでは毎月1回パチンコをやった程度だったから、楽しい思いをたくさんさせてもらったのでもちろん後悔はない。むしろ深く感謝している。

その中で、毎回チケット・散らし・ポスターについては、友人のデザイナーに頼んでいた。彼もこの事業に深く賛同してくれて、ギャラは要らないという話だったのだが、そのデザインがこのシリーズの大きな部分を担っていたので、これまた雀の涙ながら最低限は必ず現金でその場で渡してきた。それが形のない、しかし意味のある材を提供してくれる人への最低限保証すべき評価であるからだ。

今回の件を見ていて、支払うべき側には、昔の私と同じ甘えがあったのだろうとおもった。私の場合も1度出演してもらって、ギャラが安いので2度目はなかった人もたくさんあった。それがプロの世界である。

そういえばその頃ちょうど烏賀陽弘道氏のこんなブログ記事も見ていた。

うがやの「毒にも薬にもなる話」2009-04-07 ライブハウスはミュージシャンを育てない。なぜなら!http://ugayaclipping.blog.so-net.ne.jp/2009-07-23-10

ここではライブハウスというハードを持っている人が威張っているということだ。

日本は本当に形にならない物、音楽でも文芸でもデザインでも、広い意味では情報というべきだと思うが、それを作る人に対する評価が低い。それをきちんとしなくては、これから国が発展することは出来ない。なぜなら、大量のもの作りで国を支えていく時代はとっくに終わっていて、形にならない付加価値で食べていく国になっているのだから。

買い替え需要とか [社会について]

あまりこのブログには書いていないけれど、私はトロンボーン吹きである。まあそれで飯を食っているわけではないが、「いい趣味ですね~」というレベルにはなくて、人生において重要な部分を占めている。

さて。

世の中が本当に進化しているのかどうか、何年かおきに新しい楽器というのが出てくる。昔はそういうのを追っかけて見ていたこともあったのだけれど、結局のところ楽器を替えても上手くなるわけではないのと、東京から離れていたので、実機にさわるチャンスがないのでつまらなくなってやめてしまった。自分の楽器の更新をやめてからもすでに25年ほどが経つ。その間、マウスピースも、基本的には替えていない。出したい音が決まっているので、そのために最も相応しい=その音を出した人が使っていたもの=を使うことにして、あとは自分自身の研鑽に時間やお金を使う。だから楽譜にはお金をずいぶん掛けた。この前見たRathのコントラバストロンボーン(立派な新車が買える金額!)は買えないが、それに近い金額を譜面購入に充てたと思う。

バストロンボーン吹きとしては話はこれでおしまい。

だがバストロを基本とする自分がテナーも吹こうとするので話は違ってくる。同じような楽器なのだが、実は奏法はずいぶん違うと思う。そんな中でもテナーも吹いてきたので色々と苦労がある。細管はもはや別の世界なのでどうでもいいとして、太管テナーはバストロと近い。そこでマウスピースは長年、バストロ(Schilke#60相当)のリムにBach4Gのカップをねじ込んでもらって吹いてきた。口当たりが同じなのでその点は楽なのだが、なんといってもカップの深さと口径の比率が悪い。練習量で勝負できているときにはそれで良かったのだが、そして最近はまたずいぶん練習をしているのだが、それでもやはりきつすぎる。
そんな中、こんなマウスピースに出会った。

Greg Black Joseph Alessi model 1.5

今はこのブランドは作っていないようである。同等品が Griego 1Fなのだそうだ。
Griegoのサイト: http://www.griegomouthpieces.com/products/alessi_tenor.php
その名を冠しているとおり、NYフィル主席のJoseph Alessi のパーソナルモデルである。

驚くべきはその口径。なんと26.92mm。ほとんどバストロ用。カップも相当に深い。だがそのままバストロにつけてみても、サウンドはテナーのクオリティを持っている。

これが愛器 Bach45B にちょうどマッチする。

2週間ほど借りて吹いてみて、結局譲ってもらうことにした。

そこで思い出したのが「アレッシホーン」と呼ばれる、エドワーズ Edwards / Alessi Model T396-A という楽器のこと。

ひと頃ずいぶん話題になって、誰それが買ったとか何とかいう話を聞いたのだが、その後吹いているという話を聞いたことがない。

そこでアレッシホーンを買った人はどういうマウスピースで吹いているかをネット調べてみたところ、この1.5で吹いている人は一人も見つけられなかった。

楽器がゴツ過ぎるので、マウスピースもそれに合ったものでなくてはならないが、たいていの人は3とか4とか。5という人も見かけた。実際1.5は大きくて大変だろうと思う。私もバストロでもっと大きい口径のものを使ってきたから扱えるのであって。

しかし Alessi 自身は実際、この組み合わせでこんな演奏をする。
https://www.youtube.com/watch?v=Va2emfJW6j4

そういう組み合わせで吹けないのなら、無理をしてそんなものを買うことはない。楽器屋さんは次々と楽器を売りたいのだろうけれど。

結局、なんかそういう流行があっても、「流行り物を買った」満足感だけな気がする。楽器屋でそういう話をするのはある種楽しいが、よく考えたら自分がやりたいのは楽器収集ではなくて音楽を奏でることだ。

ずいぶん専門的な話になってしまったが、結局こういう風にして物を買ってもらわないと景気が良くならないという話らしい。「買い替え需要」という話がよく聞かれるが、無駄なものを買わせなくてはならない状況はローカル最適であっても全体では衰退の方向へ向かっていることに思いを致さなくてはならない。

(Facebookの自筆記事に加筆転載)

まずは親を捨てる [社会について]

立て続けにこんな記事を見た。

親の介護で未来を奪われる若者 ある20代の場合
   日本経済新聞 http://s.nikkei.com/SOwdud

高木 史郎 @TakagiShirou 氏の連投(曽布川まとめ)
http://togetter.com/li/681713

確かに親孝行は美徳である。自分も子を持つ立場である。しかしものには順序があるだろう。
私個人の見解ではあるが、このように思っている。

まず優先するグループ

1.成人していない自分の子ども
 まずそもそも人間の使命は子孫を残すことだと思っている。働くのもそのため。結婚もそのため。自己実現も結構だが、まずは子孫を残すのが義務だと思っている。たまたまうまく行っている者の上から目線の暴言だと言ってもらってもかまわない。もちろん、それを希望してもかなわないことはあるが、社会のすべてはそこに向けて進められるべきだと思っている。

2.自分自身とそのパートナー
 自分を大事にできない者は子どもも大事にできない。自分のパートナーは自分と同格である。

3.他人の子ども
 子は社会の宝である。基本的に大切に扱うべきだと思っている。そこには、悪さをしたら叱るということも含む。

一方で、あきらめるグループは次の通りである。

1.親
 親孝行は美徳とされる。だが自分の子どもには、親の優先順位を下げろと言いたい。成人した子はその子孫を残すことをメインにすべきであって、それに支障が起きるならば親を先に捨てるべきだ。捨てるにはいろいろあるが、施設へ入所させるなどがそれにあたる。かわいそうではない。親のために自分の人生を犠牲にするなど、もってのほかである。

2.成人した子ども
 子どもを育てるのは自分の許から追い出すためである。追い出しても生きていけるようにするのが子育てだ。だから幼いころは深い愛情を注ぐ。そうやって心を十分育み、長じて本人が安心して生きていける礎にするのだ。学問・教育も然り。躾も然り。成人する前に十分にそれをしてやること。大事があったら帰ってこれるようにはするとしても、成人した子どもはできるだけ早く追い出すべきである。

上の2つの記事にしても、自分の周囲にしても、そうした判断がつかないままズルズルと決定を先延ばしし、結果として共倒れになるケースがたくさん見られる。こんな意見表明をし、世論がそうなれば、世の中はもう少しよくなると思う。

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