SSブログ
教育について ブログトップ
前の10件 | -

なんだかなぁ。 [教育について]

こんな記事が回ってきたのだけれど、誰がこんなことを言っているのか詳しく知りたい。

広がるオンライン授業 大学から「60単位以下」ルール撤廃求める声
https://www.asahi.com/articles/ASP9Z6VLWP9SUSPT00W.html?fbclid=IwAR0bAkZh4fy5pxBXiRmEcLiSlMHiWAcH6ho6ZmQJPpMRewc70unSSonZRLE

このルールを撤廃したら、多くの大学が放送大学に吸収されることになるんだけどそれでいいのかな。

大学経営で「コスパ」を言い始めたら、講義はほぼすべてオンライン、何なら他大学から買ってくれば良いことになる。それなら教室もキャンパスも要らない。何なら教員も要らない。放送大学の出しているコンテンツは標準的だし良く練られているからあれを買ってくれば良いのでは?

こういう風に言うと、実験系とかそうは行かないから何だのかんだの、と言ってくる輩が必ず出てくるけれど、私立大学の大半は「文系」学部なわけで、卒論なしでも卒業できる学部・学科はたくさんあるわけだから、方向としてはこういう風に向く。

これは決して良いことだとは思えない。

ちなみに。

あんたは早稲田だから安泰でしょ、とか言う人も出てくるだろう。そんなことはどうでも良いのだが、実はこの件で逆に攻めようとしたことはある。

世間は昨年のコロナ禍以降こういうオンライン授業を積極的にやり始めたけれど、我が方は同僚氏がすでに2008年に完全フルオンデマンド授業を始めていて、それが現在まで続いている。

「数学基礎プラスα=単なるリメディアル教育ではないプラスαを」

というシリーズ。日本中で数学のリメディアルは必要とされている。どうせオンラインだから売りに出したらどうか?という提案をしたのはもう5年も前。

別に攻め取ってやろうなんて思っていなくて、日本中苦労しているだろうから、使ってもらって、先生方は自身の専門の研究に時間を割いて欲しいなと。

提案があまりに斬新すぎたせいか、我が国お得意の「できない理由」がずらり並んで、面倒臭くなって引っ込めたんだけど。

でも上限みたいなのが決められているからこそこういう提案もあり得るわけで、そうでないと本来の目的であった「先生方には研究の時間を」の話にならないので本末転倒。

ちなみに我が方は老舗なので、お上のお達し通り、オンラインオンリーではなくて、対面指導の場をちゃんと用意している。昨年から全国でやっているフルオンライン授業は大半がそれを満たしていないはずで、このところは緊急事態だから良いとしても、我々が10年以上守ってきたお達しは反古になるのかな。

そんな当方なのではっきり書き残しておく。

オンライン授業の上限撤廃には強く反対する。

nice!(0)  コメント(0) 

手書きオンライン授業のための個人的アドヴァイス~その4.2画面でスライドショーを使う [教育について]

<<その3に戻る

さて、モニターを複数枚使うというのはもしかしたら慣れていない方もあるかも知れません。始めにモニターの設定について簡単に述べましょう。まずはPCに二枚目のモニターをつなぎます。https://sobukawa-in-waseda.blog.ss-blog.jp/2020-09-05です。

つぎにモニターの設定をします。私はこのサイトを参考にしました

まずデスクトップの空いているところを右クリックし「ディスプレイ設定」を選択します。

下の方にある「複数のディスプレイ」は「表示画面を拡張する」を用います。
一番上のところで複数ディスプレイの並べ方の設定ができます。「識別」「検出」は適当に押してみて何を意味しているか見つけて下さい。ドラッグして位置を変えることができます。
0006.png

さて、ディスプレイの設定が終わったら今度はパワポの設定です。
「スライドショー」→「スライドショーの設定」に進み、右下の「複数モニター」の「スライドショーのモニター」を選びます。

0007.png

このとき、大きさの小さい方をスライドショー用にするのがいいと思います。私がノートPC+1画面で授業をするときには、ノートPC本体の方にスライドショーを出すことにしています。

Zoomなどではこのスライドショーの画面全体を共有することにしています。もちろん人によってはそこに自分の姿を映す人もあるでしょうし、その辺りは各自お好みで。

問題は、アニメーションやページめくりについてです。その操作は基本的にスライドショーの上で行います。ペンタブの適用範囲をそこまでしても良いですが、それはペンタブの方が使いにくくなるので、私はマウスを併用することにしています。ただペンタブも実質的にはマウスなので、マウスが2つバッティングすることがあります。これについては、たくさん使って慣れた方が良いと思います。

これでパワポで授業ができますが、私個人のおまけのアドヴァイスを次に。
nice!(0)  コメント(0) 

手書きオンライン授業のための個人的アドヴァイス~その3.パワポを使う [教育について]

さて、とりあえずペンタブレットの使い方に慣れてきたら、あとはプラットフォームの問題です。

本来は Microsoft OneNote がそのためのツールだと思うのですが、使ってみた感じでPowerPointの方が性に合ったのでこちらを使っています。

0005.png

私の場合、90分授業でフルに3枚から4枚ほど描きます。授業開始前に講義名などを挙げておくのがいいと思うので、表紙ページを。予備も考えて、最初から20ページほど用意しています。個人的な好みで背景色を黒にしています。普通のパワーポイントとしても使いますが、とりあえずはこの段階で「描画」ツールを選んでペンを出して見ましょう。ペンはそれぞれ色や太さを変えられます。この上でもお絵かき・お習字をしてみましょう。

なお、例えば「前回の復習」などの部分を事前に書いておけば、手書きの時間が節約できます。私はPowerPointでもTeXが使いたいので、Iguana.tex を導入しています。

Iguana.tex について(TeX Wiki)

せっかく書いた板書は消しません。いっぱいになったら次のスライドに行きます。

私の場合、全部終わったあと、それらをすべてPDFにしてLMSにアップします。(「ファイル」→「エクスポート」→「PDFドキュメントの作成」)このpptxファイルも残しておきます。

ちなみに赤い字で「録画スタート」と書いてあります。Zoomなどで録画をするのを忘れることが多かったので、最初からこの文字を入れてプラットフォームを作っており、毎回の授業はそれをコピーして準備します。授業中、この文字が出てきたら録画を開始しているかチェックして、この文字は消去します。

この画面を共有しても良いのですが、舞台裏まで丸見えなので今ひとつ格好がよくないですね。

次のページではスライドショーの使い方や私のやり方についてちょっとコメントです。




nice!(0)  コメント(0) 

手書きオンライン授業のための個人的アドヴァイス~その2.ペンタブを使えるようにする [教育について]

<<その1へ戻る


さて「使えるようにする」とぶち上げてみたものの、設定は単に接続するだけです。

ペンタブを接続してみましょう。機器や状態にもWindowsはそれをいち早く察知してドライバをインストールしてくれます。そうしたらMicrosoftーWhiteboardを開けてみましょう。そして新しいホワイトボードの作成をクリックします。

出てきたら、右上の「三」を押して、背景色などを設定します。普通は白い背景ですが、私は黒板にしたいので黒い背景を使います。見る側も目に優しいかなと思っています。その他、黒板でよくあるようにグリッドを入れることもできます。

あとはどんどんお絵かきなどしてみましょう。

0004.png

Zoomなどでこの画面を共有すれば、とりあえず授業はできるわけです。

なお、Zoomなどのシステムの中にもホワイトボードが設定されているのですが、通信状況によって手で描くのと画面に現れるものにタイムラグが生じて使いにくいので、私は自分のマシンの上に描くようにしています。

ただこれだと色々と始末が悪いので、私はこれをプラットフォームにせず、PowerPointをプラットフォームにしています。それについては次のページで。









nice!(0)  コメント(0) 

手書きオンライン授業のための個人的アドヴァイス~その1.機材について [教育について]

突然のフルオンライン授業が始まった2020年春学期(前期)も、早稲田は8月初旬に終わり、他の大学も大体8月中には終わっているようである。9月に入り、秋学期(後期)は対面授業を復活している大学も多いけれど、早稲田もそうであるように、大人数の授業はやはり密になって感染防止が難しいので、オンラインでやるところがおおい。

ところで、特に私の様な数学では、オンライン授業で数式を書くことが難しいと思われているようである。実際、ワープロで数式を書くのは難しくて、数式に強いソフトウエア・TeXを使うのが標準になっているが、教室で黒板に書くようなペースでTeXを使って書くのは至難の業であり、書くだけならまだしも、説明しながらではとても大変である。だから録画してオンデマンド授業ということになるのだが、そうなるとある程度「よそ行き」の授業をせざるを得ず、また録画自体も意外に大変、それを編集するとなるとさらに大変である。

自分の場合、3月末にオンライン授業になりそうだと思ってすぐから1ヶ月ほどかけて、どうやったら手書きで板書をしながらオンライン授業ができるかを模索した。幸い、予算が割合ちゃんとあるのと、こちらは教育ポジションで教育方法も研究対象ということもあって、色々な機材を買って試行錯誤をしてみたのだが、結局とても簡単な2種類の方法に行き着いた。そしてそれはおそらく機材購入の費用についても最も安く済むのではないかと思っている。

こんなのはよく知らされているのだろうと思っていたのが、本学内外であまり知られていないらしい。そこでその2つの方法のうちまずコンピュータ上ですべてを済ませるシステムついて、その導入方法をできるだけ単純に解説したいと思う。

基本のシステムはWindows10である。Macでも同じようなことができるが、現物が手元にないので、読者諸兄姉が適宜に読み替えてもらえればと思う。
*****************************************************
私が使っている機材は以下の通りです。
1)ノートPC あまりスペックが低いとキツいですが、Core i5マシンでは成功しているのでボチボチ。
 デスクトップ・タワーPCでももちろん良いです。

2)増設モニター できれば大きい方がよく、2枚増設できればもっと良いですが、1枚増設でも十分授業はできるでしょう。大きめのものだと作業が捗ります。私の場合、23インチモニター、1万円前後でした。後のことを考えるとアームを取り付けられるVESA規格に則ったものの方がいいかもしれません。デスクトップ・タワーPCの場合も、仮に片方が小さかったり古かったりしてもいいので、ディスプレイを合計2枚(以上)ご用意下さい。

3)ペンタブレット(ペンタブ) これを使いこなすことが重要です。ペンタブには大きく分けて2種類あります。
 ○ 液晶画面の上に直に書く(描く)「液タブ」。
  値段が張ることと、ガラス面の上にペンが当たるのが硬くていやなので採用しませんでした。ただこれは完全に好みの問題なので、できれば家電量販店の店先で試してみてはどうでしょうか。
 ○ 専用の板の上に描く「板タブ」
  画面を見ながら描くことになれるには時間がいるかも知れませんが、マウス操作ができる人ならそれを少し進化させたものと思えばなんとかなります。自分はこちらを採用しました。3日ぐらい15分ずつ「お習字」(笑)をしました。

 板タブ関連については、こちらの動画をみて色々安心したのでチャレンジしました。細かいことは分からなくても、なんとかなりそうな気がしませんか。
  https://www.youtube.com/watch?v=vaIrMCGkpOs

私が買った板タブは下に挙げたものです。値段が液タブよりずいぶん安い。こんな値段で済みます。

ソフトウエアは次の通り。
1)板タブの調整用のソフト・・・付属でついてきます。ちゃんとインストール。使い方は上の動画で解説されています。

2)Microsoft Powerpoint  私の場合は、Office365の最新のものです。古いものを使う場合には、「描画」の機能があるかどうか確かめましょう。見当たらない場合には、
「ファイル」→「オプション」→「リボンのユーザー設定」の中の「ツールタブの設定」を探して描画ツールの有無を確認しましょう。

私の場合、合計で1万6千円ほど予算を使いました。

使い方については次のページで。

◎実際にこのシステムで書いた板書の例を下のコメント欄にリンクしました。

付記:ノートPCで本体の他に2枚ディスプレイを増設する場合には、USB接続の外付けグラフィックアダプターを使います。「ノートPCモニター2枚増設」として検索して下さい。デスクトップの場合、グラフィックを増強しなくても2つ以上ディスプレイ端子があればそれが使えると思います。私の場合は2枚目はDVI出力端子が空いていたので、そこに持っていたDVI-HDMIケーブルで接続しました。音声は要らないとおもうのでシングルでもいいでしょう。





nice!(1)  コメント(1) 

オンライン授業・走り始めてみて [教育について]

なんとかオンライン授業をスタートさせることができた。これでなんとかなるだろう。

次に考えるのはこの「コロナ明け」の講義。オンライン授業もものによっては悪くない。ただし混在したら学生には迷惑になるかもしれない。どういう状況になるかわからないが、とりあえず自分の授業は内容とそれに対応する進め方でおよそ3種類ぐらいに分けられるのでそれぞれについて考える。

その1.一方通行系。ガチな数学など。オンラインでは基本はライブ開講。話すペースは難しく学生の側はずっと見てるのはきつい。なので途中休憩を入れながら60分ぐらいで終わってあとは質問タイム。時間が足りない分はその続きは動画作成。ライブ分も録画し全面オンデマンドも可とする。

このパターンは、対面講義が始まっても、教室で同時に送信&録画するという手があるので、もしかしたら今のパターンをそのままやるかもしれない。教室で生で受ける学生はそれで。1限の授業を寝床で受けたい学生はそれで。オンデマンドがいい学生はそれで。

その2.作業や鑑賞の混在系。作業を増やす。参加の負担は一方通行系よりは軽いと思われるので、大体80分以上はやる。録画はする。ネタは事前または事後にLMSに公開する。毎回レポートを課すのは対面のときと同じなので負担増にはならない。

この形式は対面でやるときにはオンラインはパスしたい。オンラインではこのパターンが準備する側にとって一番きつい。

その3.アクティブ系。講義→ディスカッション→ライティングの3段階を基本。講義は動画を作ってオンデマンド。ディスカッションは多少気は遣う部分はあっても基本対面授業と変わらずできそう。ライティングは対面のときよりも充実できそう。2コマ続きなので時間に余裕はある。

この形式はスピーキングまでは言わないが、学生がしゃべるのがメイン。講義をオンデマンドにしてしまうのは対面が始まってもやるべきかもしれない。ライティングのトレーニングの質を上げるのが今後の目標。あまりやりたいとは言えないが、オンラインのままでもいいかもしれない。ただし折衷や同時並行、例えば一部の学生がオンラインで出席、なんてのは面倒。

なお当方,この春学期は12週しかないのに15週分の教育をというので、少々詰め込みになっていることは仕方がない。
nice!(0)  コメント(0) 

結局のところ、パワポ嫌い [教育について]

新型コロナウィルスの感染拡大を受けて各大学ではオンライン授業を行うことになり、多くの先生が多大なる労力を注ぎ込んでやっておられる。そうした状況で情報交換の場がたくさんあるのはネット時代としては大いによいと思う。

そこでの情報提供・議論を見ていて、長年考えていたことについて割合はっきりしたような気がしている。それは
講義とプレゼンの違い
である。

Powerpointのようなプレゼンテーションソフトは,自分自身も学会発表などでは使う。そこではたとえば
数式も含めて1ページには最大6行ぐらいまで,文字数も50字ぐらいまで。2分以上話す

といったことを考えていて、それ自体は自分自身が見る側になると当たり前のことだと思う。
もし学会等で「欧文の論文をそのままスライドにあげて、アンダーラインを引いて」なんていう講演があったら、自分は始まった瞬間に目を閉じてしまう。

それは学会講演は第1にその場で知識の伝達を目的とするものだからだ。新しく得られた知見を聴衆に知ってもらうことが重要であり、時間の制限があるわけだから細部を端折ることは当然である。わかった気になってもらって興味を持ってもらうことが主目的だ。ちなみに卒論論の発表会などもその延長で考えさせる。その場では「講演」「ハンドアウト」「スライド・板書」「論文」は全部違うものであるべきで、それらはしっかり構造化されているべきである。このことについては、旧ブログにしっかり述べた。

プレゼンテーションのあり方 https://takuya-sobukawa.blog.ss-blog.jp/2010-09-10

もう10年前なのかと思うが、基本的には全く変わっていない。進化している部分はあるけれど、基本は同じである。

だが大学で行う学生相手の講義のときには、それでは全くだめな気がしている。例えば教科書が決まっててそのまま行う講義。読めば済む学生はそれでもいいかもしれない。それでも教室に学生を集めるのは何のためだろう。もし知識を伝達するだけでいいのなら、昨今先生方が準備しているオンライン授業が日本中から受けられればそれで済むということである。実際、それでいいと思っている人がたくさんいるようで、一頃はMoocなんていう話が盛り上がってた。大学なんてそれで十分というなら、このところの先生方の努力の大半は全く無駄だということになるが、自分はそうは思わない。

では講義の存在意義は何だろうか。

早稲田に来てから、いわゆるオンデマンド授業を提供している。基本的な枠組みは同僚のT教授が10年以上前に作ってくれたところでそれに乗せてもらっているわけだが、その中の講義ビデオのことが常に気になっている。オンデマンド講義は、動画を録画して受講者が好きなときに好きなように見ることを前提にしている。特に自分は英語で多くの講義を出している。教室で英語で授業をするのは何でもないが、ビデオに自分のグダグダな英語でしゃべるのはどうにも恥ずかしい。なのでPowerpointのアニメーションを使って教室での板書(よりもいいもの)を構築し、そこにコンピュータに読ませた英語の解説を貼り付けている。はっきり言って作成にはものすごい労力がいる。だがそこで学会発表のような薄いスライドに解説をつけるのなら、授業の意味はない。教科書を書いて配って、それを読んで問題を解け,テストを受けろで済むことになる。それでは「早稲田大学教授・曽布川拓也」の存在意義はない。

ところがこのところ議論されている話を見ていると、学会発表のようなスライドを作ってオンライン動画を録画することを良しとする話が聞こえてくる。もちろん非常時だし、慣れていない先生方への緊急的なアドヴァイスとしては大いに意義があると思うのだが、自分からするとそれが講義といえるのか?しかもその存在意義があるのか?と思えてならない。もちろん内容に高いオリジナリティがあるのならそれでもいいかもしれないが、必ずしもそうとはいえないだろうし、それは当然である。

生身の人間が講義を行うこと。できれば目の前で。

ソクラテスの問答法とか、ガリレオ=ガリレイの「教えることはできない」とか、そのあたりに基本的なスタンスを置く自分としては、教師が学生の前で議論を展開しているその姿=滑らかに進行していることもあり、難渋することもあり、その進め方にはいろいろなものがある=を見せることにのみ意味があるのではないかと考えている。

学生にも生身の人間としてそれを受け取ってほしいと思っている。だからノートテイクを重視する。事前にワープロで作った講義ノートを配るぐらいなら、最初から教科書を買わせて読んどけで済む話である。板書も途中は理路整然と書いていても最終形はグチャグチャになるかもしれない。だがその経過を共有することに意義があるのだ。そうでなければ、例えば「線形代数」なんて5つぐらいのグレードの講義動画をどこかのサーバにあげておけばいいことになる。Khanアカデミーの存在意義はそれだ。

その英語版の講義動画は、道具はPowerPointなのだが、それを使って「曽布川拓也」という数学屋が考え、悩み、理解していく過程を共有させるものを作ろうとしている。だからそもそも目的が違うのを無理して使っているので大変なのだ。

昔から「パワポ嫌い」を公言している。そうしたパワポ的なもの=学会発表スライドのようなものの見方・考え方=に蝕まれたくないというのがその真意なのだ。生身の人間が学問をしそれを伝えようとする。受け手である学生には、単にそれを「覚えてテストに書く」などということを目的にするのではなく、それを参考にしながら自分で考え、自分のスタイルを作り、やがて新しいものを生んでいかれるようになってもらいたいのだ。

これからオンラインでライブ講義を重ねていく。板書はPowerPointに書くのだが、書きながら手書きでしゃべる。そしてその板書は保存し、受講者に公開する。しかしそれ自体にはたいした意味はない。そんなのは受講者諸君が自ら考え、自らの世界を作るための手助けになればいいな、という程度のものである。これまで何回かやってみたけれど、最終形だけをみるとグチャグチャなものになっている。

でもそれでいいのだ。いわゆるパワポ的なものには絶対にしない。嫌いである。

nice!(0)  コメント(0) 

卒論指導について [教育について]

今はこの話から割と遠い時期なので吠えておく。

年末から年明けにかけて「卒論読むのが大変だ」「朱入れが」という先生方の嘆きを多数目にする。正直に言えば、指導を失敗しているなと思う。さらに言えば朱入れをすることで学生の指導をした気になっておられる先生方も散見する。残念ながら酷い間違いである。

学生は文章の(卒論の)書き方など知らない。早いうちに、就活が落ち着いたらすぐにでもその分野の典型的な論文の型を教え込むべし。卒論の一部になりそうなことを原稿用紙2枚程度で良いから取り敢えず書かせ、テニオハのレベルまでこっちの納得する文体になるまで直させる。そこで必要なのは、代わりに書いてやってはいけないということである。朱入れをするのもまあありかもしれないが、できれば避けたい。文句だけ言いながら、ほんの少し「口頭で」指示しながら、学生の側からこちらの我慢がなるものを出させる。朱入れと称して書き換えてしまうなどもってのほか。そんなことをしても何の力もつかない。あくまでも「口頭で」だ。

続いて卒業研究の報告の議論の導入部分になりそうなことを最低10枚くらいは書かせる。その段階で「文体について指導しただろ」「論理の意味が分からない」と厳しくケチをつける。論理が通らない場合には、口頭でメモ書き(板書)をさせながら語らせるようにすると通るようになる。その結果、そういう文体が当たり前になる。

今の世の中、当然ワープロソフトなどを使うだろうから、切り貼りは容易。まだ「手書きで」とかいう人がいるとしたら(その是非はここでは問わない)あとから清書させればよい。だから卒論の一部を書き始めるんだ、と作業をさせながら文章の書き方を身に着けさせる。

どの程度時間がかかるかについては学生自身の色々な意味でのキャパに依るが、それが出来てしまえば、あとは口頭で内容の議論をするだけで良いので、指導する側はずいぶん楽。結果的には時間の節約になる。

もちろんそれだけで完璧な卒論にはならないかもしれない。しかし全文を読んで事細かに指示することは時間の無駄である。はっきり言って、ごく一部の例外を除いて学部の卒論など書いた本人と指導教員と同じゼミの関係者くらいしか読まない。成果物が完璧な文章になることはほとんどの場合自己満足。学生の自己満足ならそれでいい。学生自身が期限内に満足するまで書けば良い。気を付けなくてはいけないのは指導教員の自己満足。ついつい時間を割いて朱入れして、もしくは相当多くを書き換えてやることなどしている先生方をよく見る。しかしそれでは学生は言われた通りに書くだけでそこから何かを学ぶケースは少ない。言い方を変えれば指導教員が卒論を書いてやってるわけで、誰のためにもならない。

学生の「自己満足」は言い方を変えれば「自身の尺度に対する満足」。もちろん大多数の学生のそれは稚拙で脆いものだ。しかし内容についても文章の型についても、この作業を重ねていくうえでその尺度自体が成長していく。そしてその経験を踏まえて、卒業後も長い時間を掛けてそれを鍛えていかれるようになるのだ。

夏休みなどの時期に学生のために時間を割くのを厭う先生方のお気持ちはわかる。だが対時間という意味のコスパは、その成果も含めて遥かに良い。秋学期が始まってすぐでもいいだろう。このやり方は学生自身の力を使ってその学生を指導するという効率のいいものなのだ。


>>>追記。という話をtwitterに連投して、ここに修整して書いてみたのだが、よく見たら昨年こんな話を書いてた。中味は全く一緒だった。自分もボケた。恥ずかしい。

nice!(0)  コメント(0) 

Wikipedia 禁止令 [教育について]

「識者」と言われる人の中に、
大学など無駄だ。そこで得られる知識はネットで十分得られる
などと言い切ってしまう人がいる。

ずいぶん無責任なことを言うなというのが私の感想である。

そんな「識者」が生まれた頃にはインターネットなんかなかっただろう。彼らはいわゆる学校教育(もしくはそれに類する物)を通じて自分の知識体系を作り上げてきている。

前職の同僚の言葉を借りれば
知らないものは見えない
彼は麻酔科医。放射線科医である令室の言だそうだ。色々な技術を持って身体の内部を投影しても、それを読み取る(読影)のためには、色々な疾患についての知識がないと見落としてしまうと。

ネット上にある情報は玉石混淆だが、仮にそれが全部正しいものであったとしても、そもそも自分の中に知識体系がなければそれを取り込むことは出来ない。

閑話休題。

ワセダに異動してきて講義以外に学部生の指導をすることがほとんどなく、学部では他の先生に指導を受けた大学院生をわずかに指導している。その中でこのところ時流に乗り遅れているのだなとおもったこと。

専門的な内容について、知らないことが出てくるとまずググってしまう彼ら彼女ら。確かに相当に多くのことが書いてはあるのだが、そもそもそれが正しいのか、自分が考えている話なのか、また自分の知識と合っているのか、といったことには全く頓着しない彼ら彼女ら。

般教(一般教養)の科目ならまあそれで適当なことを読んでお茶を濁して済ませることもあるのだろうが、専門ではそうはいかない。

その結果、調べたはずなのにそれがよく分からなくて、何日も無駄に過ごしてしまう。そもそも使っている用語・記号が理解できない。その上で何か理論が展開されていても、その世界のことを知らなければ理解することは難しい。

で、ついに
研究のことについてWikipediaで調べることは罷り成らぬ
という命令を出してしまった。

これは数学というジャンルの特殊性だと言える部分もあるかもしれないが、生まれてからずっと「ググれば?」として育ってきた世代であることに気持ちが至っていなかった。

適切なテキスト=ある著者が作り上げた1つの世界=を決め、それを自分の基準としてその体系に結びつけながら学ばなくては、学問として質の高いものにはなり得ない。

ちなみに電子辞書についても同じようなことを思っているけど、昔何か書いたかも。

そうそう、先頃話題になったYoutuber小学生も「ググれば済む」みたいなことを言ってたけど、あれは周りの大人がそう言って仕込んだんだろうね。哀れな話。
nice!(0)  コメント(0) 

定性的な数学 [教育について]

面白い指摘を見た。
「文系なら日本語を正しく読んでほしい」
https://twitter.com/stephen_dole/status/1148152947152285696

この問題は良問である。計算して答えを出すこと自体はコンピュータが相当のところを代替する。出てきた結果をどう見るか。逆にコンピュータに何かをさせるときに、その前に予め大づかみで状況を見ておく。とても大切なちからである。

こういう言い方は叱られるかもしれないが「定性的な数学」。
大昔、島根県教育委員会に呼ばれて一席やったときにこんな題をつけたっけ。

それこそ長年「理系vs文系」みたいな分け方を徹底的に憎んで排斥したいと強く思っている自分としては、この辺が重要な指摘だと思う。

世間では

理詰めで(論理的に)考えてものを言うのが「理系」
なんとなくふわっと捉えて暗記で乗り切るのが「文系」

というように見られていると思う。もちろんそんなわけはないのだが、多くの中高生、そしてその保護者などはそう思っているだろう。

「頭がいいから理系」「出来が悪いから文系」

というような見方もあるだろう。もちろん強く否定したい。

だが世間の大半は、

「とにかく数学の公式を覚えて計算できて、○をたくさんもらえたら偉い」

という価値尺度の下、その「偉い」人が「理系」、その下に「文系」という発想。

本来数学は、言語的な要素が強い。小中高における「計算」の大部分は単なる手続きの暗記と習熟だが、「応用問題」といわれるものの多くの部分が「日本語→数学語の翻訳」である。

「文系=数学の点数が高くない」人たちの多くは、その手続き系が出来るか出来ないかの話に終始している。そんなものはコンピュータが代替してくれるのに。そして肝心の「翻訳」の部分は「無理」と思っている。

そんな状況だから当然「数学語→日本語(自然言語)」の「翻訳・解釈」も出来ない。

昨今、大学入試センター試験に変わる新しい試験のことで話が持ちきりである。
特に問題となっているのは英語だが、数学はどうなのだろうか。

私の評価は、今の大学入試センター試験の「数学」は、内容としては非常に良く出来ていると思っている。ただし制限時間は「3時間」としてほしい。今の時間なら、量を4割は減らしてほしい。問題なのは「あのレベル」の試験で「平均点を60%にせよ」という大命令である。平均が85点では入学者選抜に使えないという意見なのだが、東大を始め旧帝大などの「上位校」が利用しなければ済むことである。

時間に迫られて「考えない数学」をやるのではなく、言語としての面を前に出した教育にしないと、結局使い物にならないのだ。


nice!(1)  コメント(0) 
前の10件 | - 教育について ブログトップ

この広告は前回の更新から一定期間経過したブログに表示されています。更新すると自動で解除されます。