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やっぱコンテクストだわ [英語ねぇ]

今日は同僚の教員の研究に関してインタビュイーを務めた。インタビューを受ける側。

インタビュアーは他学部の先生だけど自分の所属部署の役職者を兼務して下さっている方。公の会議で会うだけでほとんど話したことがなかった。

とっても切れ者の先生であることは聞いていたのだけれど。

その研究自体は、このコロナ禍の前後で大学教育がどう変わるべきかを考えるための調査。

で、その後、少し話をしていたら、その先生の過去のご研究について教えていただくことになった。
16ページほどの英文の論文。

これがまた小気味よい文章。英語を中心とした、応用言語学の先生の文章なので無駄のない簡潔な表現でバシバシ書いてる。

で、もう一つ重要だなと思ったのは、コンテクスト。そんな応用言語学の論文なんて無理じゃんと思うのだが、研究の背景の説明を見ると、半分ぐらいは実感を持って知っている話なので、かなりすらすら読めてしまう。

そうそう。こんなの、日本語で書いてあっても前後の状況が分からなかったらついて行けないわけで。

こういう刺激も良い。


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日本ではなく、世界コミュニティに貢献する [英語ねぇ]

久々に感服した記事を見た。

英語鎖国で深刻なのは情報入手のスピードじゃないと思う 
(メソッド屋のブログ 20160907)
http://simplearchitect.hatenablog.com/entry/2016/09/07/080521

アメリカで活躍する技術者ならではの直言。一言で言えば
いつまでも明治時代してんじゃねぇよ
ということかな。欧米で作られた事物を学んで自分のものにする。もちろんそれは必要なことなのかもしれないが、それに拘泥していても意味がない。英語が下手だろうが何だろうが、とにかくその
中身に対して自分から何かを出していけ
という話。

自分のように「英語と数学の読み方」なんていうショボい授業を出してる場合じゃない。。。いや現状打破のためには必要なことなのだが。。。

うず潮型に書く日本人 [英語ねぇ]

なかなか興味深い本に出会った。


英語世界の表現スタイル~「捉え方」の視点から

英語世界の表現スタイル~「捉え方」の視点から

  • 作者: 吉村 公宏
  • 出版社/メーカー: 青灯社
  • 発売日: 2011/05/27
  • メディア: 単行本



結構前の本なんだけど、全然知らなくて今回初めて手に取った本。

やっぱり専門家は見るところが違うという典型。この本を通じて勉強したことを少しずつ書き記してみたいと思う。

まずはなんと言っても帯に書いてあったこの
うず潮型に書く
である。

およそどこでも、人々はこんな風に進める。

1.とりあえず全部単語を辞書で調べる。
2.出てきたそれぞれの単語の訳語を並べて、なんとなく日本語の文(のようなもの)を作る。
3.「後ろから訳す」
4.できあがった文を読んでその意味を知ろうとする。
5.わかんねぇ、無理だぁといって投げ出す。

それこそ投げ出す人が大半。だから英語で書かれた文献を読ませようとすると嫌な顔をする。

そこで昔から言ってきたこの解決法が「語順訳」。昔のブログに何度も書いた。
これは5年以上前。
「語順訳って何?」2010.02.05
もちろん私のオリジナルじゃなくて、ネタ元はこちら。 「どんぐり倶楽部」

私自身はこの方向で指導してきた。すなわち、頭から読んで途中まで読んで意味を考える。そしてそのまま読み進める。

実際しゃべろうとするときに「後ろから」なんていう話をしていてはどうしようもないだろう、という話をしてきた。

それを裏付ける吉村氏のテキスト。すなわち、英語的な表現はまっすぐ直線だ。しかし日本語(アジアのという話だった)の表現は、周りからぐるぐる回って中心部に向かっていくのだという。すなわち学生たちの英文の読み方も、周りに色々なものを適当に並べて、中核を推し量ってくれというようなものだったのだ。

そのことをズバリ指摘してくれたこの本。なかなか面白い。

で、昔書いた次の話は、実はこのことを逆手にとって、日本語を母語とする人に優しい形で英文の読み書きをさせようというものだった。
「中間日本語」 2010.08.19
そんなことも全部総括できたのは良かった。来年の「英語」の授業に活かさなくては。

ちなみにこの話のネタ元はこの本。良い本だから、kindleでも出てるな。

日本語が見えると英語も見える 新英語教育論 (中公新書)

日本語が見えると英語も見える 新英語教育論 (中公新書)

  • 出版社/メーカー: 中央公論新社
  • 発売日: 1994/10/25
  • メディア: Kindle版


紙の版はこちら。

日本語が見えると英語も見える―新英語教育論 (中公新書)

日本語が見えると英語も見える―新英語教育論 (中公新書)

  • 作者: 荒木 博之
  • 出版社/メーカー: 中央公論社
  • 発売日: 1994/10
  • メディア: 新書



デジタルとアナログ [英語ねぇ]

「数理と社会」の講義で、暗号の数理の話の前振りとして情報理論の話をしようと思って、ネットを見ながらネタを考えていたら、おもしろいサイトに出会った。

胡谷和彦「数とは何か」
http://www7a.biglobe.ne.jp/~number/

まあその本題であるところについてはまたじっくり議論してみたいのだが、今日は「英語と数学の読み方」なんていうすげえ名前の講義を出しているところに関連して、次のページが目にとまった。

「アナログ情報の価値」
http://www7a.biglobe.ne.jp/~number/analog.html

胡谷氏は、「言語そのものはデジタルである」と主張している。異論がある方もあるかもしれないが、氏の立場からすれば「デジタル」と見るしかないのである。

なおここでは、基本的に言語そのものは文字で記録できるものとしている。私が講義で扱う「英語で書かれたテキスト」も全くその通り。だから、本の装丁などがもたらす情報は別として、文字情報そのものはデジタルで100%表せる。

それゆえに多くの学生はそれを「デジタル的」に
 
1.辞書で単語を調べ、その訳語を探し
 2.文法の時間に習った力を一生懸命使って
 3.日本語に直して

それから内容を考えようとする。私はこれまで「受験指導が悪い」「英語教育が悪い」などと色々言ってきたが、むしろ問題はもっと深いところにあるような気がしてきた。

シャノンの通信モデルを見よう。 (たとえばここに上がっている図)

この図の中で、情報を見て英語で書くのが「符号器」、そしてそれを読むのが「復元器」と見てもらいたい。


まず、復元作業では当然単語ごとにとらえることになる。英語が得意でない人は、そこでその「意味」をそれぞれ考える。そしてそれをつなげようとする。しかし残念ながらその段階で多くの情報は送信側からすると「望ましくない」ものになってしまう。だからその後、いくら日本語に直して考えても意味がないのである。

復元器の中では、そもそものコンテクストを考え、どういう文脈でその文章が存在しているかをあらかじめ想定しておき、その流れの中で復元していくのである。ここで大切なことがわかっていないケースが多い。それは
この復元器からの出力は、読み手の脳の中である
ということだ。すなわち読み手が「内容を理解する」ことがこの出力である。もちろんその理解には母語の手助けがいるケースが多いが、この出力は「日本語で書かれた文章」ではないのだ。

もちろんそれをさらに、日本語で意味のわかる文章にすることは必要になってくる。だがそれは次の段階である。最初の段階の出力は「脳の中での理解」である。

翻訳という作業は、その次の段階で行われることである。時々、数学関連の文献の和訳があまりにもひどいと思うことがあって、よく見ると数学者でない人が翻訳をしているというケースが見られる。これは最初の理解の段階の復元が十分でないことによるのである。

そしてその復元の作業は、これまたデジタル的に割り切れない、アナログ的な「コンテクスト」が必要になってくる。およそ「デジタル的な理解」など有り得ない(それを丸暗記である)。あくまでも理解はアナログ的な連続的なものである。

もしコンテクストが何もない状況でいきなり母語でない文章を読むときには、最初からコンテクストを作りながら読み進めなくてはならないため、時間がかかるのだ。

先般の講義のレビューで、「先生はこの文を理解するのに3時間もかかったとさんざん言っていたが、こんな英文簡単じゃないか。3時間も何やってたんだ」という指摘をした学生があったが、英文がいくら簡単で、すぐに和訳が出来ても、コンテクストを自ら作り上げるのは簡単でないのだ。

結局のところ、アナログの方が情報量は多い。しかしデジタルにはデジタルの色々な良さがある。この50年ほどはコンピュータを交えた情報革命が起きたと言われている。そしてそれがグーテンベルグの印刷術に匹敵するとある。印刷についてよく考え直してみると、文字言語=デジタルの普及であり、それにより伝搬が容易になったと同時に、それを解釈するための世界が豊かに広がったのだ。同時に聖書の解釈が多様化したり、文学が人間社会に大きな影響を与えたりするようになった。

こんなことを間口に、色々と考えることは多い。


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