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こういうのが書けるようになれればいいな [書評?]

他人にものを説明するというのはなかなか難しいものである。

ちょっと前にtwでひどい記事を見た。それをほぼそのまま書くとこんな感じ。

日本人の平均的な知能指数は105ぐらい。で、知能指数が20違うと会話が成立しない。でも105まで下げるとちょっと頼りないが120だと上げすぎである。社会的成功者は130~135ぐらいの人が多いのは、頑張れば自分より20ぐらい下げることが可能だからちょうどストライクゾーンの115前後に入る。140超えの人はどうやってもそこまで下げられないので一般人とは会話できない。

まあ知能指数だのなんだのってのはたとえ話だと思うのだが、この話で典型的なのは数学教師。自分が数学ができるもんだから、生徒がなぜできないのか理解できない。だから偉そうに見える。だから嫌われる。
坊主憎けりゃ袈裟まで憎い。
だから数学嫌い、となるというのはよく聞く話である。

閑話休題

先般、知人が新しい本を上梓された。ロジカルに話す・書くことについての研修講師として大きく活躍している方である。

いわゆるビジネス書なわけで、アカデミアにいるとあまり関係ないということにもなるかもしれない。

だが、かなり面白い。この本自体は物事を説明するにはどうすべきかということを述べているのだが、この本自体がその見本になっているのだ。そのことは最初に謳ってある。

で、見なくてはいけないのは、話をどこまでかみ砕いて理解するか。それは聞く・読む側の話ではなく、話す・書く側のことである。本当に小さい単位までバラバラにして理解し、それを自分で全部組み立てること。それが必要であるということを身をもって見せている。

上に述べた「知能指数」の話はそれ自体はくだらないけれど、姿勢としてはそれくらいのことが良いのだと思う。学会講演などでも「大学院生が分かるように」と銘打った講演でも、始まって3分で大半の人が落ちこぼれてしまうような講演が大半。それは言い換えれば、他の人の時間を奪ってるわけでひどいわけですよ。

その点この本は丁寧に細かいところまで踏み込んでいる。瞬間風速では難しくてつまらない、説教じみているという感想を持つ人もいるかも知れないが、これを半年に1度ぐらいずつ斜め読みにするのはどうだろう。そういう意味ではかなり使える本だと思う。

自分はここまでかみ砕いて理解し、人に話せているだろうか。


ビジネスに役立つ!文書、プレゼン、話し方を論理的に組み立てる ロジック構築の技術 (スーパー・ラーニング)

ビジネスに役立つ!文書、プレゼン、話し方を論理的に組み立てる ロジック構築の技術 (スーパー・ラーニング)

  • 作者: 倉島保美
  • 出版社/メーカー: あさ出版
  • 発売日: 2021/09/10
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)



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体感することの大切さ [書評?]

「わかる」とはどういうことなのか


この問題については,哲学的な意味での考察は自分自身はもうすでに決着を付けてしまっている。それは

新しい情報を既に知っている知識・経験と結びつけること


である。昔から「百聞は一見に如かず」と言うように,話だけ聞いてもダメなのであって,直接見ること,実際は体験してみることが大切なのだと思う。ここからの帰結として,私は

「論理的にわかる」を認めない。


論理的に筋が通ったことを何回聞いても,その議論を暗唱できたとしても,何の意味もない。あくまで感覚的に分かるということだけが意味があると考えている。

数学という学問が嫌われている大きな理由の1つに,机上の(紙上の)議論だけに終始してしまうということがあると思う。我々数学者は「美しい数式」などと平気で言ってしまうが,それに共感ためには数式で表された事柄についての感覚的な理解が不可欠である。

さて。

数学では「素数」という概念がある。2以上の整数で,1と自分自身以外には割りきれないものをいう。考える範囲は整数の範囲なので,5は2で割り切れるとは言わず,素数となる。「いくらでも大きな素数が存在する」などという定理が大昔から知られているが,大半の人にとってそれは何の意味があるかわからないだろう。というか,無駄なものだと思うだろう。そういう気持ちを否定しようとは思わない。長い間無駄なものと思われてきたそんな数学なのだが,実はここ数十年で相当に重要な応用があることがわかってきた。

今やインターネットは社会にとって欠かせないものとなっていると言って良いだろう。その中で情報を暗号化して伝える技術がなければとても危険で使い物にならない。この暗号化の技術に「大きな素数」が重要な役割を果たしている。6=2×3とか91=7×13というように,小さい素数どうしの掛け算で表されている数については,その元の形を知ることは容易である。しかし5555449が2つの素数の掛け算になっていることを知るのはなかなか大変である(答えは2357×2357)。もちろんそのチェックのためにはコンピュータを使えば楽にはなるのだが,この素数の世界は奥深く,1万桁,2万桁の素数同士の掛け算だと最新鋭のコンピュータを使っても何万年もかかることになるらしく、それ自体が暗号となり得るのだそうである(私もその数学の原理を講義で「文系」学生に紹介している。ここでは述べないが詳しくは「RSA暗号」とググってください)。

コンピュータの性能の進化は本当に目覚ましいものがあって,もしかしたら今は何万年もかかる計算が瞬時に出来てしまうかもしれない。だとするともっと大きな素数を知っておく必要があるかもしれないのだ。

世界中のたくさんのコンピュータを動員して「大きな素数を探そうプロジェクト(GIMPS)」というのが行われている。それによって2017年末に得られた最新の成果は,23,249,425桁にも及ぶ数だそうだ。

で,ここからが本題。

そう言われても, どの程度大きな数なのか皆目見当も付かないのだが,それを実感させてくれる「書籍」が出版された。


2017年最大の素数

2017年最大の素数

  • 作者:
  • 出版社/メーカー: 虹色社(なないろしゃ)
  • 発売日: 2018/01/13
  • メディア: 単行本



Huffington Postの記事
http://www.huffingtonpost.jp/2018/01/05/gimps-m77232917_a_23324596/
に紹介されていた。その関連記事には「無茶しやがって
http://www.huffingtonpost.jp/2018/01/20/amazing-book_a_23338997/
とあるが,まさにその通りだと思う。

しかも笑ったのは,これを出した出版社・虹色社(なないろしゃ)は早稲田キャンパスの南門の目の前に居を構えているオンデマンド系の出版社なのだ。最初に取材に来た記者が初めての購入者だったとのことだが,そこから一気に人気になり,オンデマンド印刷ではなかなか大変で,てんてこ舞いしているという。そんなバカなことを本気でやる。さすが早稲田だ。そこで早速突撃購入してきた。

表紙。
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ものすごい厚み。
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最初のページ。
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なんじゃこりゃ。

少し拡大。
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これは!!! 全719ページ!!!

しかしこれで1つの数を表しているのだ。本文はこれだけである。他のことは何も書いていない。

裏表紙(後書き?)には笑った。
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ミスプリントはないの?とかくだらないことは言ってはいけない。とにかく持って実感することに意義があるのだ。

とにかく大きな数だ。


久々に「よくわかった」瞬間であった。


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理系と文系とアイドル論と [書評?]

気がついたら1か月以上も何も書いていなかった。確かにいろいろと忙しかったし、ちょっと前ならブログに書いていたであろう内容をtwitterに連投で書いてしまったこともある。

まあそんな言い訳はどうでもいいとして、前からずっと大きな声で(それでも大したことはないけれど)叫んでいたことがある。

理系・文系という分類はナンセンスだ


前職時代の旧ブログではこの話をさんざん書いてきた

歴史的には、東京帝国大学が「理科」「文科」と分け、それに合わせて旧制高校が同じクラス分けをしたことに端を発するが、昨今は受験生獲得のために入試科目が減らされ、それに対応して「数学が得意かどうか」で「理系」「文系」といった区分けがなされるようになったのである。

ところが実態を見てみると
公式・解法を覚えて計算して答えを出すことができる=理系
用語を暗記でき、いい加減な文章をごちゃごちゃ書いて悦に入れる=文系

という風になっているようである。わが早稲田大学ですら、そういう傾向が見える。全く持って理系でも文系でもあらゆるものに対して冒涜しているとしか言いようがない。

こういう教育が蔓延している中、それでも心ある教育者は、小中高、また予備校にも、もちろん大学にも一般企業にもおられる。

そういう意味でネット上で注目している人が何人かある。お会いしたことがある方もあるし、ネット上でしかお付き合いがない方もあるのだが、そんなうちの一人から、新刊が送られてきた。


アイドル論の教科書

アイドル論の教科書

  • 作者: 塚田 修一・松田聡平
  • 出版社/メーカー: 青弓社
  • 発売日: 2016/11/01
  • メディア: 単行本


著者の一人の松田氏は、東進ハイスクールの数学講師として有名な方である。昔は多くの予備校で最悪な数学の教え方をしていたと思うが、それに染まった人たちが現在数多く公立学校の教師をしている一方で、予備校で教えている人たちの中には、本当に立派な教育をしている方が何人か見られる。それは単に目先の受験テクニックではダメで本質を学ばなくては大学受験に勝てない、勉強だけではダメで幅広く教養を深めないと受験だけでなく大学入学後に伸びないということを説いている人たちである。松田氏はまさにそういう方だと思っていて、twitterなどで時々相手をしてもらってきた。かつて高校数学の問題集を恵贈されたことがあったのだが、そういう点で素晴らしいものであった

で、今回。今度は私の専門たる数学・数学教育の話ではない。「アイドル論」である。おじさんたる私は、アイドルそのものには全く興味がない。昔のアイドルは一応顔や名前は知っていて、今テレビなどに出てくれば一応わかるが、その程度だ。そんな私になぜこんな本を?

だが松田氏がわざわざ送ってくれたものなので、とりあえず読まなくては失礼だ。それで最初から読み始めたのだが、塚田氏による前書きを読んでその意図がすぐにわかった。一部引用してみよう。

ただ論考を読んだだけでこの本を閉じるということはなるべく避けてほしいと思っている。というのも本書の各講は、ただアイドル文化の「分析」を記述しただけのものでもなければ、読者に正しい知識を与えるような「啓蒙」を主眼としたものでもないからである。(中略)本書の論考が企図するのは・・・各論考で読者を「触発」すること、そして読者自身の手で各論考の「応用篇」を紡ぎ出してもらうことである。(中略)本書でアイドル文化の豊穣さを感じてもらい、またアイドル文化が日常化したこの世界で遊泳するための知的体力を養ってもらえればと願っている。


題材はアイドル論なのだが、その内容を主張しようしていない、むしろ読者がそれぞれ自分で考えるための縁にしてほしいというのだ。

前に、大学教育について大きく3つの枠組みを設定してみた。

「大学の授業とは」 http://sobukawa-in-waseda.blog.so-net.ne.jp/2016-04-15

そこでは「トレーニング系」という言い方になっているが、もう少し丁寧に述べるならば「方法論」を学ぶということだと思う。旧ブログで紹介したが、MITを始めアメリカの大学の学部は、物事に対する取り組み方、考え方を鍛える場であるそうだ。私もそのことに思い至って、現在はそういう授業を2種類開講している。

で、今回の本は、社会学者である塚田氏と、建築科卒で数学教師である松田氏が、それぞれの得意なアプローチで「ももクロ」「AKB48」を中心としたアイドル論に切り込んでいる。一応話はこの二人を「文系」「理系」とカテゴライズして章立てが組まれていて、それぞれに全く異なる内容も盛り込まれている。その中で面白かったのは、それぞれの分担の章に、もう一人の著者が食いついている「コラム」だ。そこを見て確信したのは、塚田氏も「理系」がわかるし、松田氏も「文系」がわかるということだ。つまりこのようなカテゴライズはあくまでも便宜上のもの、最初の入り方の違いであって、最終的には別物として分けるべきでないということだ。言い方を変えれば、それぞれは個性としてとらえるとしても、こうやって混ざりあってさらに深いものができる(はずだ)ということだ。実際、2人は顔を合わせれば議論をするのだという。ジャンルの違う人と議論をすることほど刺激的なことはない。ただしそれをいいものとして捉えるためにはそうとうな度量がいるのだが。

なんとなくぼやっと読んだ上で読者たちがそれぞれ勝手なことを言う


というのが著者たちの狙いだということだが、それは実は(大学)教育が本質的に目指すべきことなのではないだろうか。

こうした刺激をくれるいい友人を持ったことに感謝したい。

父親というもの(2) [書評?]

昨日に続いてこの本の読後感など。





昨日は実父のこと書いた。今日は義父のことを少し書こうと思う。ただ妻には了解を得ていないし、詳細な部分については書きにくいこともあるのでご了解いただきたい。

義父は1930(昭和5)年、岡山の生まれである。軍医と小学校教員(職業婦人!)の家庭に生まれている。軍医だった父親は小笠原沖で戦死。義父はその関係もあって神戸二中から岡山一中に転校、六高に進む(第六高等学校といって何のことかわからない方は、ここおよびここを参照)。

義父はいわばインテリ層であった。しかし当時のインテリ層にありがちな方向に流れ、結局途中で「代々木」へ。(注:「代々木」については顔をしかめる人が多いかもしれないが、たとえば渡邊恒雄・読売新聞主筆もかつては「代々木」の正式なメンバーである。当時のインテリ層にはそういう人が多かった。)しかし「日本を変える」という無謀な夢は「代々木」の惨状をみてしぼみ、結局得たのは「肺病」だけであった。ほどなく岡山へ戻り、早島療養所(現・国立病院機構南岡山医療センター )へ入所。そこで入所者仲間のマドンナであった義母と結婚したのである。

小熊英二の父・小熊謙二は、シベリア抑留から帰国ののち、6年もの間結核療養所に収容されている。義父が受けた手術は、肋骨の切除を含むようなもので、小熊謙二の話よりは幾分ましなのかもしれないが、手術の後遺症、また手術時の輸血によるC型肝炎感染は最後まで苦労の種であった。

退所後、義父はある方の計らいによって働きながら資格試験を受け続け、「士」の資格を得た。義母と二人三脚で起こした「士」事務所では、それこそ骨身を削って仕事をし、義母も隣接する資格を取得して業務に邁進した。一方で義父はその資格者の地位向上などにも尽力した。全国連合会の青年部のお世話、県の会長などを歴任し、最後は全国連合会の副会長を務めさせてもらった。「代々木」のメンバーではなかったが、ある種「代々木」的なバイタリティがあったようである。長女は早く結婚、次女(愚妻)も結婚したのち、黄綬褒章を受けている。

義父が士業仲間で時々会っていたなかに、シベリア抑留経験者がいた。そのことについて直接話を聞くことはなかったが、マスコミなどで語られていること、また士業を開くに至った経緯などを聞くと、小熊謙二の体験は他人事ではない。

昨日から長々と無駄なことを書いているのだが、本書を読んで、こういうオーラルヒストリを記録しておくことの重要性を改めて感じた。なぜなら書く人・読む人にとってその内容が鮮烈に伝わってくるからである。シベリアの話は直接ピンと来なくても、アウシュビッツ=ビルケナウ収容所の見学をした経験と被せてみれば、ある程度実感を持って想像できる。可能な限り自分自身で直接体験すること、そして直接経験した人から話を聞くこと。そういうことの重要性は、どんなジャンルでも同じである。理科ならば「実験を」というだろうけれど、歴史だってこういう生き証人がいるのなら会わない手はないのだ。

そんなことをしみじみ思った本であった。

父親というもの(1) [書評?]

個人的なことであるが、私の父親が他界してからすでに40年以上が経過した。1931(昭和6)年生まれの父が43歳の誕生日を目前に亡くなったとき、私は小学校5年生。3つ下の妹、さらに3つ下の弟を抱えた母は、今は悠々と暮らしているが、当時はずいぶん苦労したことと思う。

そんなこともあって、自分の人生には父親の影響がある意味で曲がった形で、一方でストレートすぎるほどストレートに反映している。もちろんその自覚ははっきりあるわけである。

20年ほど前、妻と知り合い、義父母と知り合った。義父は1930年、義母は1928年の生まれである。どちらもすでに亡くなっているが、同じような年代で同じような苦労をしてきている。彼らのヒストリーを聞き、それを思い出すにつけこういうものを語り継ぐことの重要性を感じるのだが、そんなことの延長線上でこんな本を読んでしまった。


生きて帰ってきた男――ある日本兵の戦争と戦後 (岩波新書)

生きて帰ってきた男――ある日本兵の戦争と戦後 (岩波新書)

  • 作者: 小熊 英二
  • 出版社/メーカー: 岩波書店
  • 発売日: 2015/06/20
  • メディア: 新書



終戦の前年に召集され、満州に派兵され、3年間のシベリア抑留を経て帰還した、筆者の父の口述に基づく個人史である。

筆者は私より1学年上で、昔から感覚が近いと思ってきた一人である。そんな書に対して、同い年で氏のの友人である、原武史氏が朝日新聞に書評を書いていた。
「父が息子に託す、希望こそが指針」
http://book.asahi.com/reviews/reviewer/2015081600004.html

このWeb版では割愛されているが、8月15日の同紙週末版には「友人の著書の書評は書かないという自ら課した禁を破って」とあった。原氏も大いに共感した部分があると見られる。原氏も昔述べたように、私は共感できるヒストリを持っている。彼らが束で来たらこれはその本を読むしかないのだ。

日教組?(曽布川旧ブログ)
http://takuya-sobukawa.blog.so-net.ne.jp/2009-09-10-2


簡単なあらすじは原氏の書評にゆだねよう。ここでは昭和一ケタである3人の親のことを、本書の読後感とともに述べたい。

私の父は前述の通り終戦時に14歳である。東京の子だくさんの家に職人の子として生まれた。生まれたころ一家は目黒区に住んでいたようである。祖父は浜松の曽布川家の分家の末っ子。のこぎりの目立ての職人だったようで、東京に出てきている。祖母は隣村の餡子屋さんの娘。早世した長女を含め、6男3女をもうけている。父は5男。会社員の長兄、教員の2人の次兄、すぐ上は技師。弟はやはり会社員である。変な姓なのですぐに行きあたりそうだが、昭和50年代まで都内の小学校、または高校の教員だったのはは私の父、伯父かその連れ合いであろう。かつてある電機系のメーカーの取締役には叔父の名前があった。

父の左太ももには小判大の傷跡があった。詳細を聞くことは叶わなかったが、ちょっと聞いたところでは米軍の機銃掃射の弾丸がかすめた痕だそうである。そして戦争末期には父方の故郷である静岡県浜松(なので、かの地には曽布川姓は珍しくない)に疎開していた。男6人のうち下の3人が一緒に疎開したようだが、兄は工業学校に進んで早くに浜松を離れ、弟はまた少し世代が違ったようで、当時の様子を詳しく聞き出すことも難しい。父は最初は鉄道学校に入ったようだが、それを早々にやめ、2人の長兄にしたがうように師範学校に通った。そのまま教員にもなれたのだろうけれど、学制改革の時期にあって新制・東京学芸大学に入りなおしている。本当は東京教育大学に入りたかったようだが、出願したものの家族の都合で試験を受けられなかったようである。そしておそらく、決して歓迎されていなかった浜松の疎開先から、早く東京に帰りたかったのだろうと思う。

父は学生時代は経済的にはずいぶん苦労したようである。冬は後楽園のアイススケート場の閉館後に氷面整備のアルバイトをして、焼きそば屋のあまりを食べるのがその日の唯一の食事だったとか、夏は野球場でビールの売り子をして、頭脳プレイで一人だけ売り上げを伸ばしていたとか、そんな話は聞いたことがある。

その学生時代は、まだ朝鮮戦争が始まる前で、時流に乗ったのかどうか、一方では「代々木」にも通っていたようである。両親が代々木辺りにあった施設で住み込みで働いていたことも関係があったのかもしれない。私の母の曰く、朝鮮戦争で突然レッドパージの風が吹き、教員採用試験には合格したものの初任地が北豊島郡内で、ずいぶんがっかりしたようである。しかしその十数年後には同じ北豊島郡内に家を建てることになり、引っ越しの時にはその最初の教え子たちが手伝いに来てくれたのだから、何が幸いするかはわからないものである。

父はその後、渋谷・穏田の小学校に転勤。今でこそ賑やかなところだが、当時は狐狸が出るようなところだったようである。数年前、そのころの卒業生のクラス会に呼ばれて出たがそんな話だった。その小学校の構内には「穏田の水車」が復元されているが、どうやら最初に校内にそれを復元したのは父であったらしい。

その在職中、32歳で母と結婚。母は山形の出身で小学校教員をしていた伯父の連れ合いの従妹。その伯父と気があった父は、一緒に蔵王温泉(当然山形です)にスキーに行き、そこで見染めたのだという話である。

結婚の翌年長男(私)が生まれている。その直後に日蓮宗大本山・池上本門寺の参道脇の旧青線地帯をつぶして作られた、東京都の教員住宅に居を移す。6畳と3畳の2間に台所、風呂トイレがついていた、当時としては文化的なアパートだと言えよう。それでも北東に面していたので、日当たりが良くない、長男が風邪をひきやすいのはそのせいなのか?などと思っていたようである。

長女、二男が生まれてのち、1972年、北豊島郡の荒川河川敷に日本住宅公団(現UR)によって造成された大きな住宅地に一戸建てを構えることになった。のちに色々と話題になった高層団地もそのころはまだ建設途中。その西側の住宅地も造成は終わったものの、バスで15分いかないと買い物もできない、小学校も当時の小学2年生の足では30分ほどかかった記憶がある。

翌年、家の目の前に新しい小学校が開校。新しくできた巨大な住宅団地群とその脇にできた新設の小学校。70年代前半のそういう状況は、多少極端なケースではあるがこのブログに述べたとおりであると言ってもいいだろう。

引っ越しの前年、父は文京区内の小学校に転勤する。小学校の理科教育において若手の中心として活躍していた父は、旧小石川区内が希望だったらしい。山の手のインテリが多く居住する地域で、その優秀な子弟に対して教育をしてみたかったということである(そう聞くと、今の発想では教員としての力量について若干疑問を挟みたくなるが、当時まだ30代だったので許してやることにしよう)。しかし意に反して旧本郷区の学校に配置になり、がっかりしたようである。3年して同じ旧本郷区内の小学校に転勤。ところが翌年体調不良を訴え、3年目に休職し4月に胃潰瘍(実は胃癌)を手術。翌年復職するも、夏には転移が見つかり帰らぬ人となったのである。

細かい話を聞かないうちに父は他界してしまったのだが、大体のストーリーはこんな感じである。小熊の父・小熊謙二よりも6歳下なのだが、その差はヒストリーとしてはずいぶん違うものになっている。伯父は2人応召しているが、戦地までは行かずに済んだようだし、その辺りがちょっとの違いでずいぶん違う人生だったと思う。小熊も「あと5年後だったらずいぶん違った人生だっただろう」と述べているが、全くその通りである。そして父のことを思えば、高度経済成長期にあって、いいタイミングで一戸建てを建てられたこと、もちろんそのために倹約して資金をためたわけだが、そのことが大きかったのだと思う。あと5年違っていたら家は立たなかっただろう。父は早く他界してしまったが、母が長男を中学から大学院まで私立にやり、長女を1浪ののち国立大学の医学部へやり、二男も高校から大学と私立にやることができたのは、この家があったからだと思う。母は父が亡くなるまで専業主婦でその後働きに出たので、母子家庭には違いない。だが家があったこと、そして周囲の人たちに支えられ、状況に恵まれていたからこそそれが可能だったのだ。父が家を建てられなかったら? 父がもう5年長生きしていたら? そう思うと何が幸いするのかわからないものである。

(あすに続く)

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