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後出しじゃんけん [早稲田と慶應]

早稲田大学の教員になってから2ヶ月が過ぎた。
慶應義塾に17年,塾員としての期間を合わせれば38年在籍の自分としてはやはりそこが基準となるわけだが、比較してみるとなかなかおもしろい。そんなことを、言いたい放題書き連ねてみようと思う。

最初に書きたいのは,スクールカラーがどのようにして醸成されるかである。

慶應義塾は創立者・福沢諭吉がそもそも啓蒙書をたくさん書いて世に布かんとした人なわけで、その著作がすなわち慶應義塾のあるべき姿を示していると言える。その中でもその演説から取られた次の文章が有名である。

慶應義塾は単に一所の学塾として自から甘んずるを得ず。其目的は我日本国中に於ける気品の泉源、智徳の模範たらんことを期し、之を実際にしては居家、処世、立国の本旨を明にして、之を口に言ふのみにあらず、躬行実践、以て全社会の先導者たらんことを欲するものなり

これは福澤の演説の一節から取られたもので,その後福澤自身の書として残されている。詳しくは「慶應義塾の目的」というサイトを参照のこと。

一方早稲田大学は、大隈自身の残した書物はほとんど無い。大隈自身が悪筆で文字を書かなかったからだという説もあるようだが、とにかく自筆がほとんど残っていないので、当時はともかく今となっては別の拠り所が必要である。しかもその創立は明治14年の政変を受けた後のことで、大隈自身は早稲田大学の前身である東京専門学校の創立から10年間は全く学校に足を踏み入れていない。もし大隈自身が演説でも行っていれば、演説の名手の大隈のことであるから、それが記録され後世に伝えられたのかも知れないが、そういうものが薄いのである。のちに、初代の早大総長に就任した大隈が大正2年に宣言した「早稲田大学教旨」は福澤のそれを意識したものではないかと思うが、その存在すらそれほど知られていない。

そんな早稲田大学で、学生の心の拠り所となっているのが校歌である。そもそも校歌だの国歌だの軍歌だの賛美歌だのというのは、みんなでいっしょに歌うことによって心を一つにするものであるが、特に早稲田では顕著である。なお、どうでもいいことであるが、お上の作った役人養成機関である帝国大学にはそのようなものはない。

先日,大隈講堂で早稲田大学校歌の歴史と意義を語る講演があったので、顔を出してみた。校歌の研究会の会長でもある応援部稲門会の会長が話されていて、内容としてはなかなか興味深いものであった。
そこで学んだことを踏まえ、相馬御風の作った歌詞に勝手な思いを述べようと思う。

1番
都の西北 早稲田の森に   聳ゆる甍は われらが母校
われらが日ごろの 抱負を知るや   進取の精神 学の独立
現世を忘れぬ 久遠の理想  かがやくわれらが 行手を見よや

この1番は本当によく出来た歌詞である。今や「都の西北」が早稲田大学の代名詞ともなっている。実際、皇居のちょうど北西に校舎がある。研究によると、大隈は(明治)天皇に対する思いがことのほか深く、いつも天皇をいかに盛り立てるかを考えていたとのことであるが、その気持ちを酌んだ出だしから、「進取の精神」「学問の独立」「久遠の理想」という早稲田大学の基本理念が歌い込まれていて、それを学生に覚えさせる役割を十二分に担っている。ちなみに歌詞では「学の独立」とあるが、これは曲に上手く乗らなかった(歌詞が先に書かれたようなので、語呂が悪かったというべきかも)ので縮められたようである。

2番
東西古今の 文化のうしほ  一つに渦巻く 大島国の
大なる使命を 担ひて立てる   われらが行手は 窮り知らず
やがても久遠の 理想の影は   あまねく天下に 輝き布かん


「文化のうしほ(潮)が、ユーラシア大陸から、また太平洋を越えてやってきて、合流する我が国」という位置づけである。明治の人である相馬御風はもちろん漢籍に堪能であったわけで、中国の文化の深さとその背後から、また太平洋を越えて色々な文化が入ってくる現状から、独自の世界を作るべきだという意思があふれていて、歌詞の内容としては本当に素晴らしい。しかし歌の歌詞としては少々残念な感じがある。まず「大島国」を「ダイトウコク」と読めというのである。それは次の「大なる使命を」につなげるためであろうと思うが、ここでほとんどの日本人が口にしない「ダイトウコク」ということばを持ってきたのは、頭韻を踏む話なのかも知れないが非常に違和感がある。また、1番ででてきた「我らが行く手」「久遠の理想」が再登場している。1番では「見よ!」と啖呵を切っているのだが、「きわまることはない」とわざわざ注釈をつけているし、「天下に輝き渡るぞ」と言っている。しかも1番とこれらの言葉の切り方を変えている。漢籍の知識の無い私が言うのは無粋かも知れないが、残念ながら覚えるのにも混乱するし、歌詞の内容が間怠っこしい。

3番
あれ見よかしこの 常磐の森は  心のふるさと われらが母校
集り散じて 人は変れど   仰ぐは同じき 理想の光
いざ声そろへて 空もとどろに   われらが母校の 名をばたたへん

相馬自身が書いた歌詞が2通りあって、というような変遷の問題はともかく、この3番は覚えやすく、未来に向かった歌詞で有り、同時に卒業しても歌い続けたくなるもので、よく出来ていると思う。

そもそもこの曲については、メロディがYaleUnivの学生歌のパクりであるという話が一生懸命解説されるが、それ自体は知っていてもいいけれど、価値が下がるような問題では無いと思う。

一方でこれを慶應義塾の塾歌の歌詞と比較すると、その出来の優劣は歴然である。

1.見よ 風に鳴るわが旗を
   新潮寄するあかつきの 嵐の中にはためきて
   文化の護りたからかに 貫き樹てし誇りあり
   樹てんかな この旗を  強く雄々しく樹てんかな
2.往け 涯なきこの道を
   究めていよゝ遠くとも
      わが手に執れる炬火は 叡智の光あきらかに  ゆくて正しく照らすなり
   往かんかな この道を 遠く遥けく往かんかな
3.起て 日はめぐる丘の上
   春秋ふかめ揺ぎなき 学びの城を承け嗣ぎて
   執る筆かざすわが額の 徽章の誉世に布かむ
   生きんかな この丘に 高く新たに生きんかな
(改行: 曽布川)
本来、荘厳な式典で歌うにも行進曲にアレンジするにも使えるようにと作曲されたものだが、どちらかというと荘厳なイメージで捉えられがちで、歌詞も現代の我々には簡単な言葉とは思えないが、歌詞のストーリー性や、対句の形式の美しさ、内容の明快さなど、残念ながら比べものにならない、と言わざるを得ない。

だが塾員・塾生の諸兄姉よ、そこで自慢してはいけない。

  早稲田大学校歌: 明治40年作
  明治大学校歌: 大正9年作
  立教大学校歌: 大正15年作
  法政大学校歌: 昭和5年作
  慶應義塾塾歌: 昭和15年作

明立法の3大学も、現在の公開に至る前のエピソードが各大学のサイトに挙がっているが、慶應義塾ももともと古くさいスタイルの塾歌があって、それは悲しい?ので作り直されたのである。しかも見てわかるとおり、早稲田の校歌から見ると30年以上もあとに出来たものである。その間の我が国における(西洋スタイルの)音楽の発展を思うと、、むしろ今に至るまで(なんとか)歌い継がれているという意味では早稲田の校歌の方が先見の明があったと言うべきかも知れない。

後出しじゃんけんに勝負はない。

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