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校歌&応援歌・早慶戦(歴史だとか昔話を交えて) [早稲田と慶應]

新年度が始まった。我が社でも入学式が行われている。ちょうど大きな会堂が建て替え工事に入っていて全体の大きな入学式は出来ないが、例年通り学部ごとの入学式が行われ、メインキャンパスは新入生歓迎行事でごった返している。

私のオフィスは正門から入って一番奥にあることから、その前をステージに見立てて色々なパフォーマンスが行われている。にぎやかだからというだけでなく、どうも仕事に身が入らない。それは日に何回か応援部のステージがあるからである。ついつい見に行きたくなってしまう。

早稲田に来て4年目が始まった。面白いのは、赴任の最初の説明会の時に「是非校歌を覚えて下さい」といわれたことである。私は慶應義塾に長く学んだので、その最大のライバルかつ最も愛する早稲田の校歌・第1応援歌「紺碧の空」ぐらいはおよそ知っていたのだが、教職員に対して改めてそう言われるのは珍しいのではないかと思う。曰く
校歌には早稲田の精神がすべて詰まっている
全くその通りである。慶應義塾は創立者・福澤諭吉先生がそもそも啓蒙家であって、たくさんの書物を残している。それに対して早稲田の創立者・大隈重信侯は、福澤先生と同じように佐賀藩の藩校で教頭まで務め「漢学・蘭学だけではダメだ、これからは英学だ」と目覚めて英語に通じるようになり、通訳をする中で政府で重用されるようになったのだが、文字を書くのが得意でなかったようで、書物がほとんど残っていない。一方演説の名手であって全国に知られていたのである。で、その建学の精神を伝えるものとして校歌が重要な役割を果たしているというのだ。

少し長くなるがその早稲田大学の校歌の歌詞を上げてみよう。

早稲田大学校歌(明治40年) 作詞:相馬御風
1.都の西北 早稲田の杜に   
  聳ゆる甍は 我が母校
  我らの日頃の 抱負を知るや
  進取の精神 学の独立
  現世を忘れぬ 久遠の理想
  輝く我らの 行く手を見よや

2.東西古今の 文化の潮
  1つに渦巻く 大島国の
  大なる使命を 担いて立てる
  我らが行く手は 窮まり知らず
  やがても 久遠の理想の影は
  遍く 天下に 輝き布かん

3.あれ見よ かしこの常磐の森は
  心のふるさと 我らが母校
  集まり散じて 人は変われど
  仰ぐは同じき 理想の光
  いざ 声揃えて 空も轟に
  我らが母校の 名をば讃えん

1番は学苑の成り立ち。2番は世界における学苑の位置とこれから進む道。3番は卒業生へのメッセージ。

これで完璧である。それ以上のものは要らない。

一方で、慶應義塾塾歌はどうだろうか。

慶應義塾塾歌(昭和15年) 作詞:富田正文

1.見よ 風に鳴る 我が旗を!
  新潮寄する暁の
  嵐の中に旗めきて
  文化の護り 高らかに
  貫き立てし 誇りあり
  立てんかな この旗を
  強く 雄々しく 立てんかな
  ああ我が義塾
2.往け 涯りなきこの道を!
  究めて いよよ遠くとも
  我が手に取れる篝火は
  叡智の光 明らかに
  行く手正しく 照らすなり
  行かんかな この道を
  遠く 遙けく 行かんかな
  ああ我が義塾
3.起て 日は巡る丘の上
  春秋深め 揺るぎなき
  学びの城を受け継ぎて
  執る筆かざす 我が額の
  徴の誉れ 世に布かん
  生きんかな この丘に
  高く 新たに 生きんかな
  ああ我が義塾

1番は自分たちの現状。2番は進んでいく方向。3番は心に刻む志。

早稲田と比べるとコントラストに欠けるのは否めない。ではなぜこのような違いが起きたのだろうか。

そこでよく見てもらいたい。早稲田大学校歌は明治40年。それに対して慶應義塾塾歌は昭和15年。30年以上の開きがある。実は他の東京六大学の校歌を見ると、明治は大正9年、立教は大正10年、法政は昭和5年(ちなみに東大は校歌がない)。なぜ慶應義塾がこんなに遅いのか? 実はそれは今の塾歌に先立つ旧塾歌(明治37年作)があったのである。
旧塾歌 音源はこちら
聞いてみるといかにも古臭い。それで作り直したというのが真相のようである。(ちなみに今回調べたところ、明治には現在歌われている山田耕筰の作曲による校歌の前にもう一つ校歌があったようである)。

そこで、古臭い旧塾歌の下、慶應義塾にどのようなスクールソングがあったのか。いくつか挙げてみよう。
・「若き血」 作詞・作曲:堀内敬三 (昭和2年)
・「丘の上」 作詞:青柳瑞穂 作曲:菅原明朗(昭和3年)
・「Blue Red and Blue !」 作詞:矢部章夫 作曲:橋本国彦 (昭和6年)
・「幻の門」 作詞:堀口大学 作曲:山田耕筰 (昭和8年)
・「踊る太陽」作詞:白石鉄馬 作曲:增永丈夫(=歌手・藤山一郎)(昭和10年)
・「三色旗の下に」作詞:藤浦 洸 作曲:藤山一郎 (昭和15年)
「若き血」はずっと歌い継がれる第1応援歌である。塾歌は知らなくても若き血を知らない塾員はいないだろう。「丘の上」は今でも慶早戦に勝ったときに歌う歌。次の3曲は最近は歌う機会は減ってきたようだがオシャレな曲である。校旗について歌った “横文字名前“の「Blue Red and Blue !」。「幻の門」は山田耕筰の作曲技巧が凝りすぎて若干歌いにくいものの、慶應義塾の最初の正門であった今の東門に関するエピソード、そしてこの曲を機に?東門が「幻の門」と呼ばれているのは面白い。「踊る太陽」は当時としては相当に「ハイカラ」な歌であっただろう。同じく校旗について歌った「三色旗の下に」は今でも「3」回の攻撃時に歌う曲である。少なくともこれらの曲は40年前に神宮球場で歌っている。そんな歴史を経て、それでもやはり塾のメインの歌が必要だということで作られたのが今の塾歌である。

対する早稲田。この頃に作られた応援歌としてはなんと言っても
・「紺碧の空」 作詞:住 治男 作曲:古関 裕而 (昭和6年)
である。同じ頃には
・天に二つの日あるなし 作詞:西條 八十 作曲:中山 晋平 (昭和3年)
・大地を踏みて 作詞:小出 正吾 作曲:草川 信 (昭和5年)
という曲があるようで、ビッグネームによる作だが、少なくとも私は聞いたことはないし、譜面も入手できていない。

そこで勝手に昭和10年頃の早慶戦を考えてみる。もう既にそれだけで充分に時間的にも空間的にも世界を体現している「校歌」と自分たちこそ覇者であると宣言した「紺碧の空」を擁する早稲田に対して、雄々しい「若き血」とオシャレな数曲プラス古臭い「(旧)塾歌」。早稲田は「校歌」「紺碧の空」が偉大すぎて他の曲が不要だったのに対し、慶應はモダンな曲で対抗したものの芯がはっきりしなかったのである。

その流れか戦後になっても慶應はたくさんの応援歌を作っている。「我ぞ覇者」(昭和21年)、「慶應讃歌」(昭和22年)、「ヴィクトリーマーチ」(昭和24年) 、「オール慶應の歌」(昭和25年)など。神宮球場では毎回の攻撃ごとに違う応援歌を歌うという状況であった(少なくとも私はどれも神宮球場で歌ったことがある)。昭和40年に早稲田の「コンバットマーチ」、対抗して翌41年に慶應が「ダッシュケイオウ」を作り上げてから応援のスタイルも徐々に変わっていったものの、早稲田は大人数の「校歌」「紺碧」「コンバット」による圧倒的な応援、慶應義塾はオシャレな曲を並べて対抗というムードだったと私は思う。

昭和50年代以降になってチャーリー石黒、タモリ、サンプラザ中野(くん)といった早稲田出身の人たちによる曲が色々と増えて、早稲田の応援もグッと華やかになったことや、平成に入ってからはチャンスパターンを軸とした応援に変わってきたことも一応触れておく。

まあそんな中で、早大生諸君には校歌は1番だけでなく是非3番まで覚えて欲しい。紺碧の空は黙っていても覚えるだろうから、出来れば「早稲田の栄光」も。塾生諸君には「若き血」は良いとして、出来れば「塾歌」「慶應讃歌」まで在学中に覚えて欲しいと思う。それが後々で財産になるから。

付記:ここでは「早大校歌」「塾歌」は何も見ずに書いておりますので、誤字がありましたらお許しを。

大隈重信侯の墓参に行ってきた [早稲田と慶應]

今日1月10日はうちの大隈さんの命日。早稲田では創立者・大隈重信を親しみを込めて「大隈さん」と呼ぶ人が多い。

2限の講義の前に護国寺にあるお墓にお参りに行ってきた。

大隈さんが敬愛していた福澤諭吉先生の誕生日が命日だというのも、何の因縁か。

しかし2月3日の雪池忌(福澤先生の命日)にはそれこそたくさんの塾生がお参りに来るのに、今朝の護国寺は全く閑散。大学の職員が来て掃除をしてた。毎年午前10時に、総長以下大学執行部、商議員などの面々が墓参に来るのだが、学生や一般の教員が来る気配はほとんどなかった。

確かに2月3日は期末試験も終わったころで、神頼みの代わりに来る塾生がたくさんいることもわかる。まあ福澤先生の墓前で土下座しても進級できなかったヤツはたくさんいるようだが。

一方で今日は正月休みが明けたばかりで、早稲田ではこのことを忘れてる/知らない人が大半だろう。だが、慶應義塾では何日か前から「命日には墓参されたし」みたいな掲示が出ていたが、早稲田では見ない。

日比谷公園で行われた国民葬に30万人も参列したといわれる大隈さんだが、その後の早稲田での扱いはちょっと寂しい気がする。


野球の応援と法会 [早稲田と慶應]

今季も高校野球の応援に楽器を持って行っている。

もともと母校・慶應志木高校の應援指導部がずいぶん前に消滅してしまったところで、野球部員に伝統の応援・神宮のムードを味わわせてあげたいというOBおよび保護者の話に乗って仲間に入れてもらっている。お節介な話である。

今季はすでに慶應志木を2試合応援した。そこではまた良い出会いもたくさんあり、その関連で早実を2試合応援させてもらった。「早大教授が楽器を持って早実の応援」というのも笑える話であるが、あくまでも肩書きは「友情応援にきた慶應OB有志の1人」である。さらに志木高の応援に来てくれた塾高應援指導部のリーダー諸君に感謝する意味もあって、塾高の応援にも参加する。ちょうどこの時期は吹奏楽の世界ではコンクールのシーズンで、野球の応援まで手が回らないという話は昔から聞く。さらに、吹奏楽を指導する音楽のセンセが応援なんてことについての意義を感じていないケースも多いようで、その辺りがいつまでも母校を卒業しない愚かなおじさんの言い訳になっている。

さて昨日(2016.7.23)。志木高はすでに敗退してしまったが、塾高、早実、早大学院、さらには早大本庄の試合が丁度おなじ昼前後に重なっていた。塾高の応援には呼ばれていたし、実は早実&早大学院の両方が勝てば次はこの直接対決・早早戦なので、それを願って応援に行きたかったのだが断念し、お寺さんの毎年恒例の施食会に参列。亡父の納骨から40年。母は正月の達磨講と夏のこれを欠かしたことがないが、私は東京を離れていた20余年間、施主となって金は払ってもほとんど行ったことがなく、このところ行くようにしている。妻と母、弟一家、妹のところの甥っ子1人と賑やかしく参ったのであった。

そのお寺の大住職は亡父と同年。その人柄で檀家の敬愛を集めるだけでなく宗派内の要職や日東○専の理事長を務めるなど、とても偉い方だが、さすがに年齢なりのことがある。実務は娘婿の若住職(とは言っても私より上)が担っていて、最近は典礼もほぼすべて仕切るようになった。

そして毎年この法会には必ず、大住職の同年の筑波大名誉教授のお坊さんが一席やる。落語ではなくてちゃんと法話ではあるけど、まあお笑いもまぶして。さすがに毎回同じ話ではあるが、年輩の方々にはその方がいいようで(お前は年輩じゃないのか?という突っ込みは置いておく)。

その法話は必ずみんなで歌を歌って終わる。曲は橋幸夫・吉永小百合「いつでも夢を」の替え歌で、仏法の基本的な内容。

で。

気づいたことが2つ。まずはこれってチョー現代版のお経じゃね?ってこと。ちゃんとしたお経は敷居が高いが、これなら行ける。みんながこの考えを理解し心に刻むことが目的なのだ。もともとキリスト教の賛美歌だって、流行歌の替え歌として作られたものが多いわけだし。

そしてもうひとつ。これは校歌と似てるなと。残念ながら単に形式的なものになっている学校も多いが、特に早稲田が顕著。母校慶應義塾は創立者の福澤諭吉が数多くの著作を遺したので、塾がどう進むべきかはそれが拠り所になる。しかし早稲田の創立者・大隈重信は演説の名手としては知られたが、字が下手で書物を遺していない。早稲田大学では校歌・都の西北がその役割を果たしているのである。

そんなことを考えているうちに思い当たったことがあった。自分は何のために母校の野球の応援なんかに行くのだろう。時間をつぶして交通費をかけ、日焼けして真っ黒になり、終わったらしっかり「反省」会を行う。もしかしたらこれって、宗教と同じ構図なのではないか。みんなで教義?=建学の精神?を確認する作業。

世間の人たちは「お前は慶應の出身のくせに早稲田の教授なんかしやがって、裏切り者だ」などという。だが実態は全く違う。その歴史的な経緯からしても早慶は兄弟なのだ。慶應が24歳お兄さん。福澤諭吉は大隈重信より6歳年上。だが互いに尊敬し合う大好きな同志なのだ。先日行った早実の応援は、20人強のブラスバンドの半数以上が慶應應援指導部のOB。

その中で校歌なり応援歌なりというのは、お経と同じような役割を果たしているように思う。

日本では「宗教」というと特殊なもののように思う人がたくさんいるようだ。また「早慶」みたいなつながりを疎ましく思う人がいるのも知っている。それはぼんやり考えてみると似たような構図だと思うのだ。

変なことを考えながら参列した大施食会(お施餓鬼)の法会であった。

伝統は「守る」ものなのか [早稲田と慶應]

東京六大学野球・2014年春のリーグ戦が閉幕した。

最終週の早慶戦で慶應が連勝して勝ち点4で早稲田に並び、さらに勝率で上回って慶應の優勝であった。

初戦は慶應・加藤拓、早稲田・有原が踏ん張って僅差の試合、二戦目は一転して乱打戦ながら、慶應が打ち勝った。


三塁側&左翼応援席(慶應の応援席に固定)には何度も足を運んだことがある私だが、一塁側&右翼側(早稲田の応援席に固定)には行ったことがなかったので、早大に赴任して最初の早慶戦である一回戦に応援に行ってきた。

初めて外から慶應の応援を見て、また早稲田の一員として応援してみて、これは由々しきことがあると感じた。

長く、スポーツ推薦制度のない慶應は早稲田に対戦成績で大きく水をあけられてきた。しかしそんな実力差がはっきりしていた時代であっても、「早慶戦は別、なめてかかると必ずやられてしまう」と早稲田は気を引き締めていた。それは応援席の醸し出す独特の雰囲気である。サッカーなどでわかるように、この観客席はパワーになる。

(一回戦に限定したことだとは思うが)慶應側は小中(高も?)が音楽の授業で応援歌をしっかり練習し、応援パターンもしっかり知った上で集団で応援に臨んでいたようだった。実際、今から38年前、慶應義塾中等部の一年生であった私もそうやって慶應の応援歌の大半を覚え、土日続けて応援に行って声が嗄れたものだった。

そのときに思ったのは
「早稲田の応援はすごい」
ということ。特に紺碧の空を歌う様、コンバットマーチの圧倒的な迫力。それに比べると慶應はもしかしたらお上品すぎるかもしれぬ。ダッシュ慶應もそれほど威圧感がある曲とは思われなかった。

だが長く時を経て今回、全く逆の感想を持った。
「慶應の応援はすごい。それに対して早稲田の外野の応援は弱い」


早稲田は今年度応援部が人数的に少し手薄である。リーダー部に幹部が2人しかいない。何度も見たところで、主将の仁熊君、副将の木暮君、2人とも素晴らしいリーダーだと思う。早慶戦プレイベントの慶應のリーダーたちと比べてもこの2人のすばらしさは際立っていた。だが質より量という部分もある。舞台に上がった2年生はまだまだ経験不足だったし、応援席に入って直接応援を指導する下級生部員の数も足りなかった。

こういうことはあり得る。応援部の諸君の日々の努力をわかっているものとして、入ったばかりの新入部員も含めて彼らを非難する気は毛頭ない。

しかしなぜ応援が上手く行かなかったのか。一番の問題は、応援席に詰めかけた満員の学生諸君が、応援歌・応援曲や応援パターンを知らず、応援部のリードに乗れなかったことにある。

例年、youtube に応援パターンが上がっていて(たとえば2014年度はこれ。その1 その2)、それを見て勉強すれば確かにわかるようにはなっている。

だがそれをどの程度みんなが勉強してくるのかというと、はなはだ心許ない。かくいう私自身も1度見ただけできちんと覚えられないままにスタンドに来てしまった。それ自体恥じることではあるが、そういう衆愚を何とか動かして応援をしなくてはならない。

結局、「○○チャチャチャ」「○○ハイハイハイ」といった単純な応援パターンが主になってしまい、その昔、三塁側から見て感じた威圧感などとはほど遠いものだったように思う。

昔はyoutubeもなかったのだから、応援を知る方法もなかったはずだ。しかし圧倒的な迫力があった。

それは偏に、応援パターンが多くなりすぎたことに起因すると思う。

慶應側応援席にも長く入ったことはないが、慶應も応援パターンが増えてきている。今風のリズムの応援曲・応援歌が入ってきている。連ねてみると、おそらく4,5倍にはなっているだろう。だからなかなか簡単には覚えられない。それを一糸乱れずやっているのはすごいと思うが、それでいいのだろうか。

早稲田の応援パターンも4つほどだったと思うが、なぜそれを全部やろうとするのか。

その結果、一つ一つが手薄になっているのではないか。

昔と違って、野球のルールでさえ怪しい人も多いようだ。そのなかでの応援を昔の調子でやることは難しい。

いい方法を考えようではないか。伝統は守るものではない、毎年積み重ねていくものだ。今は今のやり方があってよい。応援練習会のようなものをたくさん行うのも良かろう。応援歌の楽譜を冊子にして出版するのも必要だ。出来ることは色々ある。

がんばれ応援部。

後出しじゃんけん [早稲田と慶應]

早稲田大学の教員になってから2ヶ月が過ぎた。
慶應義塾に17年,塾員としての期間を合わせれば38年在籍の自分としてはやはりそこが基準となるわけだが、比較してみるとなかなかおもしろい。そんなことを、言いたい放題書き連ねてみようと思う。

最初に書きたいのは,スクールカラーがどのようにして醸成されるかである。

慶應義塾は創立者・福沢諭吉がそもそも啓蒙書をたくさん書いて世に布かんとした人なわけで、その著作がすなわち慶應義塾のあるべき姿を示していると言える。その中でもその演説から取られた次の文章が有名である。

慶應義塾は単に一所の学塾として自から甘んずるを得ず。其目的は我日本国中に於ける気品の泉源、智徳の模範たらんことを期し、之を実際にしては居家、処世、立国の本旨を明にして、之を口に言ふのみにあらず、躬行実践、以て全社会の先導者たらんことを欲するものなり

これは福澤の演説の一節から取られたもので,その後福澤自身の書として残されている。詳しくは「慶應義塾の目的」というサイトを参照のこと。

一方早稲田大学は、大隈自身の残した書物はほとんど無い。大隈自身が悪筆で文字を書かなかったからだという説もあるようだが、とにかく自筆がほとんど残っていないので、当時はともかく今となっては別の拠り所が必要である。しかもその創立は明治14年の政変を受けた後のことで、大隈自身は早稲田大学の前身である東京専門学校の創立から10年間は全く学校に足を踏み入れていない。もし大隈自身が演説でも行っていれば、演説の名手の大隈のことであるから、それが記録され後世に伝えられたのかも知れないが、そういうものが薄いのである。のちに、初代の早大総長に就任した大隈が大正2年に宣言した「早稲田大学教旨」は福澤のそれを意識したものではないかと思うが、その存在すらそれほど知られていない。

そんな早稲田大学で、学生の心の拠り所となっているのが校歌である。そもそも校歌だの国歌だの軍歌だの賛美歌だのというのは、みんなでいっしょに歌うことによって心を一つにするものであるが、特に早稲田では顕著である。なお、どうでもいいことであるが、お上の作った役人養成機関である帝国大学にはそのようなものはない。

先日,大隈講堂で早稲田大学校歌の歴史と意義を語る講演があったので、顔を出してみた。校歌の研究会の会長でもある応援部稲門会の会長が話されていて、内容としてはなかなか興味深いものであった。
そこで学んだことを踏まえ、相馬御風の作った歌詞に勝手な思いを述べようと思う。

1番
都の西北 早稲田の森に   聳ゆる甍は われらが母校
われらが日ごろの 抱負を知るや   進取の精神 学の独立
現世を忘れぬ 久遠の理想  かがやくわれらが 行手を見よや

この1番は本当によく出来た歌詞である。今や「都の西北」が早稲田大学の代名詞ともなっている。実際、皇居のちょうど北西に校舎がある。研究によると、大隈は(明治)天皇に対する思いがことのほか深く、いつも天皇をいかに盛り立てるかを考えていたとのことであるが、その気持ちを酌んだ出だしから、「進取の精神」「学問の独立」「久遠の理想」という早稲田大学の基本理念が歌い込まれていて、それを学生に覚えさせる役割を十二分に担っている。ちなみに歌詞では「学の独立」とあるが、これは曲に上手く乗らなかった(歌詞が先に書かれたようなので、語呂が悪かったというべきかも)ので縮められたようである。

2番
東西古今の 文化のうしほ  一つに渦巻く 大島国の
大なる使命を 担ひて立てる   われらが行手は 窮り知らず
やがても久遠の 理想の影は   あまねく天下に 輝き布かん


「文化のうしほ(潮)が、ユーラシア大陸から、また太平洋を越えてやってきて、合流する我が国」という位置づけである。明治の人である相馬御風はもちろん漢籍に堪能であったわけで、中国の文化の深さとその背後から、また太平洋を越えて色々な文化が入ってくる現状から、独自の世界を作るべきだという意思があふれていて、歌詞の内容としては本当に素晴らしい。しかし歌の歌詞としては少々残念な感じがある。まず「大島国」を「ダイトウコク」と読めというのである。それは次の「大なる使命を」につなげるためであろうと思うが、ここでほとんどの日本人が口にしない「ダイトウコク」ということばを持ってきたのは、頭韻を踏む話なのかも知れないが非常に違和感がある。また、1番ででてきた「我らが行く手」「久遠の理想」が再登場している。1番では「見よ!」と啖呵を切っているのだが、「きわまることはない」とわざわざ注釈をつけているし、「天下に輝き渡るぞ」と言っている。しかも1番とこれらの言葉の切り方を変えている。漢籍の知識の無い私が言うのは無粋かも知れないが、残念ながら覚えるのにも混乱するし、歌詞の内容が間怠っこしい。

3番
あれ見よかしこの 常磐の森は  心のふるさと われらが母校
集り散じて 人は変れど   仰ぐは同じき 理想の光
いざ声そろへて 空もとどろに   われらが母校の 名をばたたへん

相馬自身が書いた歌詞が2通りあって、というような変遷の問題はともかく、この3番は覚えやすく、未来に向かった歌詞で有り、同時に卒業しても歌い続けたくなるもので、よく出来ていると思う。

そもそもこの曲については、メロディがYaleUnivの学生歌のパクりであるという話が一生懸命解説されるが、それ自体は知っていてもいいけれど、価値が下がるような問題では無いと思う。

一方でこれを慶應義塾の塾歌の歌詞と比較すると、その出来の優劣は歴然である。

1.見よ 風に鳴るわが旗を
   新潮寄するあかつきの 嵐の中にはためきて
   文化の護りたからかに 貫き樹てし誇りあり
   樹てんかな この旗を  強く雄々しく樹てんかな
2.往け 涯なきこの道を
   究めていよゝ遠くとも
      わが手に執れる炬火は 叡智の光あきらかに  ゆくて正しく照らすなり
   往かんかな この道を 遠く遥けく往かんかな
3.起て 日はめぐる丘の上
   春秋ふかめ揺ぎなき 学びの城を承け嗣ぎて
   執る筆かざすわが額の 徽章の誉世に布かむ
   生きんかな この丘に 高く新たに生きんかな
(改行: 曽布川)
本来、荘厳な式典で歌うにも行進曲にアレンジするにも使えるようにと作曲されたものだが、どちらかというと荘厳なイメージで捉えられがちで、歌詞も現代の我々には簡単な言葉とは思えないが、歌詞のストーリー性や、対句の形式の美しさ、内容の明快さなど、残念ながら比べものにならない、と言わざるを得ない。

だが塾員・塾生の諸兄姉よ、そこで自慢してはいけない。

  早稲田大学校歌: 明治40年作
  明治大学校歌: 大正9年作
  立教大学校歌: 大正15年作
  法政大学校歌: 昭和5年作
  慶應義塾塾歌: 昭和15年作

明立法の3大学も、現在の公開に至る前のエピソードが各大学のサイトに挙がっているが、慶應義塾ももともと古くさいスタイルの塾歌があって、それは悲しい?ので作り直されたのである。しかも見てわかるとおり、早稲田の校歌から見ると30年以上もあとに出来たものである。その間の我が国における(西洋スタイルの)音楽の発展を思うと、、むしろ今に至るまで(なんとか)歌い継がれているという意味では早稲田の校歌の方が先見の明があったと言うべきかも知れない。

後出しじゃんけんに勝負はない。

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