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数学になら出来る。しかし数学にしか出来ない。 [教育について]

嫌われ者の「数学」を生業にしているものとしては、もちろん数学を多くの人に好きに鳴ってもらいたいのだけれど、そうならなくても「意味のある勉強」だとおもってもらいたい。社会に出た人はそれがわかる人が多いので、だから「学生時代にもっと数学を学んでおけば良かった」となるのだけれど。

さて、昨日に引き続いて

慎 泰俊「プロフェッショナルの作法」
小熊英二【第2回】「思考は体験によって決定されるのではなく、過去を再構成することで組み立てられる」
http://bit.ly/1smA2Hv (現代ビジネス 2014年6月18日)

を読んで。(大嫌いだけれど)世間の表現を使うならば、「文系」の研究をしておられる小熊氏だが、本稿の最初に次のようにあった。

 数学のユークリッド幾何学というのは、公理があるわけですよ。「平行する二直線は交わらない」とかね。それを前提に、足場にして体系が組み立ててある。それを疑ったらユークリッド幾何学そのものが成り立たないわけですね。
 ほかにも、人間は功利を追求するものだとか、国家は国益を追求するものだとか、そういうことを公理にして作ってある学問体系もある。でも本当は、それは仮定であって現実世界を完全に覆えないだろう、せいぜい近似値しか導けないだろう、というところがあるわけです。その根源的な部分を問うところから、別の発展があるわけですよ。

歴史学について、こういう観点がはっきり語られているのを初めて見た。大変興味深いものである。現実世界を全部覆えないことが当然であるとし、どの議論もそれを踏まえてなされていて(なされるべきであり)、新しい議論はそこを疑うところから発生するというのは、全く非ユークリッド幾何の話であり、(西洋)哲学の流れに則ったものである。しかし今の教育の中でそれを体感できるのは数学だけである。いわゆる「文系」について、この観点をはっきりしながら教えられる教員は少ない。もちろん大学教員もである。高校以下の教科書の内容が気に入るとか気に入らないなどという議論が延々となされていて、自分の気に入ったものを若者に教え込むべきだという主張しか見えない。

その点で、こうした「公理を出発にして」という見方が出来る教科は数学ならば出来る。そして現状では数学にしか出来ない。

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三輪崟

この欄に「ユークリッド・・」という単語があるので、ここに書かせて頂きました。facebookにおいて、(ユークリッド原論とは何かな)の感想文(見てくださってますね)に、あとがきのも引用がもう少しあったのですが、長くなるのと、誤解をうけるのでは・・と止めました。それをここで紹介します
→「生物学や医学の分野では、ときには激しい議論を経て、現在では倫理的に問題のないことが証明されない研究は発表出来なくなりました。この倫理性の基準をめぐる議論は今後も続くでしょうし、絶えざる議論こそが倫理性の保証を可能にすると言えるでしょう。その一方で人文系の研究者が研究の自由という言葉の前で思考停止してしまうにでは情けない限りです。・・・」
 引用の前半の倫理性のことについては、今衆目されている件がありますがら、私の批判として載せたと誤解され兼ねないので止めました。私はW大の見識を信じています。後半の「文系の研究者が・・・」のくだりは、何の事だかわかりません。
 お書きになっている議論とはずれたコメントですみません
by 三輪崟 (2014-07-18 22:04) 

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