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適材適所ということ [生き方について]

気がついたら2ヶ月も何も書いていなかった。その間にも思うことは色々あったのだけれど、Twitterに連投して済ませてしまった。面倒だったのはともかく、考えてみたら昔書いたネタだよな、という内容が多くて気合いが乗らなかったのだった。

さて。

このブログを見て下さる方は私個人をご存じの方も多いだろうと思うのだが、長らくラッパ吹きをしていることは知っていても、昔バレーボールの選手だったことを知る人は少ないかもしれない。

通っていた特殊な中学校は、運動部と文化部の兼部を推奨していた。中1の時には膝の成長痛で運動を禁じられていたが、解禁になった1年の終わりにすぐにバレーボール部に入部した。それまでに器楽部(ラッパ)とコーラス部に入っていたので3つ兼部ということになる。高校に上がっても最初はその3つに顔を出してみた。けがのため出場できなかった先輩の代わりにスタメンで試合にも出ていたけれど、さすがに夏の大会でアップアップで、バレーボールを諦めたのだった。でもその後も好きで、大学生になってからはその中学校にコーチの手伝いに行っていた。ラッパも教え、バレーボールの練習相手になりということで、それはまた1つのサークル活動みたいなものだったのである。

そんなわけで、当時とはずいぶんルールが変わってしまったけれど、バレーボールを見るのは好きである。先般から急に話題になったラグビーも高校の時体育の授業でやったので、これまた見るのは好きだが、とにかくやったことがあるというのは大きい。

で、ここからが本題。当時から中学生としては比較的身長が高かった(180cm)ことと、部員が多くなかったので、3年ではレフトエースだった。運動神経は大いに鈍く、ジャンプ力もそれほどないのだが、大学生のコーチの指導のおかげで攻撃だけは何とか戦力になれていたのだと思う。

だが、レシーブは下手。特にサーブレシーブが下手。当時は今のようなジャンプサーブなどはなくて、ドライブサーブとフローターサーブが主流だったが、身体が硬くて微妙な変化にアンダーハンドパスが対応できない。今のルールなら、後衛に下がったらすぐにリベロに入ってもらうような下手くそさだ。

そこで思い出すのが、当時のコーチ。前衛にいても後衛にいても、とにかく曽布川にサーブレシーブをさせずに済むように、フォーメーションを組んでくれた。前衛センターに回ってきたときでも、セッターの位置を上手く準備することで、曽布川はすぐにレフトオープンで待てるように。そのときに私の代わりにレシーブを引き受けてくれたのは、キャプテンと6人中1人だけ入っていた2年生。

そのコーチは、部の伝統的なフォーメーションを全廃し、当時の主流の形に変え、また中学生ではそれほど普及していなかったクイック攻撃なども導入。夏の大会には間に合わなかったが、メインの試合である秋の定期戦(普中戦という)ではチームは充分機能したのだった。そして曽布川みたいな下手くそでも何とか戦力にしようという工夫。

ちょうど昨日はそのバレーボール部のOB会。せっかく東京に帰ってきたのに昨年は体調不良で参加を断念、ことしも週末にコンサートを控えて練習に専念したため欠席。そんな中で、当時のコーチの発想に感動し、深く感謝したことを思い出した。適材適所ということを大切にしたいと思っている今の自分のルーツはここにあったのだと確認した。

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