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父親というもの・おまけ [生き方について]

友人が先の連投に付けてくれたコメントに、
戦争体験者から直接体験談を聞くことができる我々の世代が、安易で乱暴な二分法が横行する世論に歯止めをかけなくてはならない

とあった。全くその通りだ。若い人たちに禍根を残すようなシステムを作ってはいけないという気持ちは強く持っている。今日は戦争法案に反対する全国行動があるという。聞こえてくる全ての反対意見に同調できるわけではないにせよ、少なくともあの法案に賛成する人たちの上滑りな物言いに説得力はない。

ついでに言うと、今の政府・与党の中枢にいる人たちの言動を見る限り、首相の靖国参拝などもっての他。靖国神社でコスプレして騒いでるバカも許せないが、そんなバカでも我が同胞。あいつらとても戦場に送りたくない。

だが靖国神社自体には安易な批判をしたくない気持ちもある。

一昨年、100歳で大往生を遂げた母方の祖母は、上京してくると靖国神社への参拝を欠かさなかった人である。

祖母は1913(大正2)年、山形県天童市の豪農の家に長女として生まれている。跡取りの弟とその下に二人の妹。古い時代のこと、ねえやがいて、小作人もたくさん抱えた裕福な家だったようである。田舎にもかかわらず、自転車に乗って女学校に通ったのだからその羽振りの良さは伺えよう。女学校を出てほどなく山形市内の旧家の13代目に嫁いでいる。これもまた(少なくとも明治時代までは)羽振りの良かった家だったようで、お寺にもたくさんの寄進をし、永代供養の証文をもらっている。もっともそういう大檀家なので、決して「いつもタダ」ではなくて、恒にそれなりのことをせざるを得ないのでかえって高くつくらしいが。
その13代目は学業優秀だったらしく、商業高校の教員をしていた。5男1女、その紅一点が私の母である。

戦時中、召集礼状が来るのはまず農家の次男三男以下であった。当時の家制度において長男は跡取りとして保護された。そのため天童の家にはなかなか赤紙が来なかったのだが、戦局の悪化を受けて昭和18年祖母の弟が応召。翌19年、南方戦線で戦死している。

跡取りが早世すること自体は特段珍しくはなかったと思うが、そんな時代、婿を取るのも難しいと思われた。さらに戦後の農地解放で多くの田畑を失う。しかしそんなとき奇跡的に次女に婿が。その大叔父はことあるごとに「オレは婿だから」と笑っていたが、その温和な人柄は誰からも愛された。大きな藁葺き屋根の母屋から古式ゆかしきトイレが遠くて夜行くのが怖かったことを覚えているのも、その大叔父を中心に一家が優しく迎えてくれたからである。

もちろん、跡取りになった大叔母も色々苦労したのだが、山形市内に出てきた祖母もずいぶん苦労した。姑の世話、近所に転がり込んできた大家族の分家の世話、そして13代目が脳腫瘍で半身不随。詳しくは書かないが、初孫(=私)の顔を見ずして13代目が亡くなるまではずいぶん大変だったようである。

その後、娘(=私の母)の手伝いに上京する度に、靖国神社に参拝していたのであった。戦争がなければ、そして弟を戦争に取られなければという思いがあったのだろう。

祖母を靖国神社に最初に連れて行ったのはその長男、私の伯父であるが、伯父は名実ともに「代々木」であった(故人)。そんなこともあって私自身も靖国の件には安直な発言が出来ないのである。

今の政治家たちの言う「英霊の御魂に誠を」はどうも票欲しさの「遺族会」への媚びへつらいにしか聞こえないが、「遺族会」の長を務めていた自民党の重鎮たちは実際に「遺族」であるケースが多く、その彼らは最近も「戦争法案反対」という意見表明をしている。

当時、決して支持していたわけではないが、今から見れば昔の自民党は懐が深かったと思う。最後は年寄りの昔話で締める。

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