こういう教育をしたいよね [教育について]
昨今あらためて「大学における教育」ということについて考えている。
その端緒の1つはもちろん「文系学部解体論」である。
大括りにするのは失礼だが、こんな話になったのは、残念ながら大学の文系学部はろくな教育をしていないということに尽きる。何百人単位の教室で、昔のノートを読むだけの「講義」。とりあえず自分が書いた教科書の売れ行きだけが心配なの?と言われてしまうような体制。
よそばかりは言えない。我が社などはその最低最悪なヤツだったわけで、そういう報告がされてていたことを私は忘れないし、我が社はそれを何とかしようと改革をしているし、その一環で自分が嘱任された(という方言が早稲田大学にはある)わけだ。
「大学を問う」新潮文庫(初版 1992年)http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4101455112/sobukawa-22/ref=nosim
もちろん日本中でそうでない教育もたくさん行われていることを知っているが、文部科学省サイドから「文系学部は解体せよ」のような話が出てくるのは、大臣に問題があるというより官僚が考えていることであり、その文部官僚の大半は「役人養成大学・文科」出身であり、そこでろくな教育が出来ていないからである。そういう教育をうけたそこの出身者が「文系学部は要らない」などと言ってしまうのである。
偉い先生が書かれた書籍も読んだ。話題になった本のうち「そうでない教育をやってるぞ」という本には共感するが、 「こうあるべきだ」という話は論旨には納得するし賛成するが、そんなわけで鼻白む。
じゃあ自分の考え・実践は?
長年、国立大学「文系」学部で教育をしてきた。専門が数学なのになぜ?とかいうのはどうでも良い。というより「文系/理系」という括りを不快に思っているのでそこは無視。数学の世界でずっと行われてきた教育方法=ゼミナールによる少人数教育=で学生を鍛えてきた。学問内容は数学にとどまらない。教育学も教育心理学も法規などもふくむ。私がしたことは大したことはないだろうが、少なくとも学生はちゃんと立派に巣立ってくれた。具体的に言えば、今流行の「アクティブラーニング」である。ただし幾分強い力を掛けて始めるのであるが。
専門教育はそれでよい。膝詰めでやるからソクラテスの問答法を応用することも出来る。大昔からやってきた方法である。
で、自分の現職。グローバルなんとかという恥ずかしい名前のセクションに所属しているが、「今風の教養部」であると言えばわかりやすいだろう。数学の講義だが教養である。昔の教養部は一律に「線形代数/微積分」を講じていれば良かったのかもしれない。学生の出来が悪いから少し薄めて、みたいなことを言っていたのだろう。学生に対して甘えることができた古き良き時代だ。だが今は違う。本当の意味のリベラルアーツ教育が出来るのか、そしてそれが今の社会に合致しているのかが問われている。
かつて同僚であった、現・日本T大学のS教授が言っていたことを忘れない。
自分は碩学などという言葉からは程遠いのだが、研鑽を続けてなんとか教養の講義として成立するように日々努めているつもりである。
そんな中、同僚の授業の報告を見て唸ってしまった。
池原 舞氏・授業の前にこんなことを。
https://www.facebook.com/mai.ikehara.7/posts/869169249879329?pnref=story
池原氏は自身が奏者としての活動も行いながら音楽史を専攻する若手研究者である。
担当はいわゆる「教養科目」であるが、その授業は研究者としての知見のみならず、現役の奏者としてのパフォーマンス、また現役のプロデューサとしてのマネージメントもふんだんに盛り込んだ、とても豊かなものである。その中でのこの授業(前のパフォーマンス)。
別の授業を見せてもらったこともあるのだがそれもすばらしかった。およそ教師というものはこうでなくてはならない。自分の研究を大いにぶつけ、学生に全力で問いかける。
これこそが我々のすべきことである。
これはおまけだが、こういうスタンスをもって見るとよくわかる。
大学の授業とは
http://sobukawa-in-waseda.blog.so-net.ne.jp/2016-04-15
その端緒の1つはもちろん「文系学部解体論」である。
大括りにするのは失礼だが、こんな話になったのは、残念ながら大学の文系学部はろくな教育をしていないということに尽きる。何百人単位の教室で、昔のノートを読むだけの「講義」。とりあえず自分が書いた教科書の売れ行きだけが心配なの?と言われてしまうような体制。
よそばかりは言えない。我が社などはその最低最悪なヤツだったわけで、そういう報告がされてていたことを私は忘れないし、我が社はそれを何とかしようと改革をしているし、その一環で自分が嘱任された(という方言が早稲田大学にはある)わけだ。
「大学を問う」新潮文庫(初版 1992年)http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4101455112/sobukawa-22/ref=nosim
もちろん日本中でそうでない教育もたくさん行われていることを知っているが、文部科学省サイドから「文系学部は解体せよ」のような話が出てくるのは、大臣に問題があるというより官僚が考えていることであり、その文部官僚の大半は「役人養成大学・文科」出身であり、そこでろくな教育が出来ていないからである。そういう教育をうけたそこの出身者が「文系学部は要らない」などと言ってしまうのである。
偉い先生が書かれた書籍も読んだ。話題になった本のうち「そうでない教育をやってるぞ」という本には共感するが、 「こうあるべきだ」という話は論旨には納得するし賛成するが、そんなわけで鼻白む。
じゃあ自分の考え・実践は?
長年、国立大学「文系」学部で教育をしてきた。専門が数学なのになぜ?とかいうのはどうでも良い。というより「文系/理系」という括りを不快に思っているのでそこは無視。数学の世界でずっと行われてきた教育方法=ゼミナールによる少人数教育=で学生を鍛えてきた。学問内容は数学にとどまらない。教育学も教育心理学も法規などもふくむ。私がしたことは大したことはないだろうが、少なくとも学生はちゃんと立派に巣立ってくれた。具体的に言えば、今流行の「アクティブラーニング」である。ただし幾分強い力を掛けて始めるのであるが。
専門教育はそれでよい。膝詰めでやるからソクラテスの問答法を応用することも出来る。大昔からやってきた方法である。
で、自分の現職。グローバルなんとかという恥ずかしい名前のセクションに所属しているが、「今風の教養部」であると言えばわかりやすいだろう。数学の講義だが教養である。昔の教養部は一律に「線形代数/微積分」を講じていれば良かったのかもしれない。学生の出来が悪いから少し薄めて、みたいなことを言っていたのだろう。学生に対して甘えることができた古き良き時代だ。だが今は違う。本当の意味のリベラルアーツ教育が出来るのか、そしてそれが今の社会に合致しているのかが問われている。
かつて同僚であった、現・日本T大学のS教授が言っていたことを忘れない。
専門は若手の一線の研究者が講ずるべきである。教養は幅広くものを知る碩学が講ずるべきである。
自分は碩学などという言葉からは程遠いのだが、研鑽を続けてなんとか教養の講義として成立するように日々努めているつもりである。
そんな中、同僚の授業の報告を見て唸ってしまった。
池原 舞氏・授業の前にこんなことを。
https://www.facebook.com/mai.ikehara.7/posts/869169249879329?pnref=story
池原氏は自身が奏者としての活動も行いながら音楽史を専攻する若手研究者である。
担当はいわゆる「教養科目」であるが、その授業は研究者としての知見のみならず、現役の奏者としてのパフォーマンス、また現役のプロデューサとしてのマネージメントもふんだんに盛り込んだ、とても豊かなものである。その中でのこの授業(前のパフォーマンス)。
別の授業を見せてもらったこともあるのだがそれもすばらしかった。およそ教師というものはこうでなくてはならない。自分の研究を大いにぶつけ、学生に全力で問いかける。
これこそが我々のすべきことである。
これはおまけだが、こういうスタンスをもって見るとよくわかる。
大学の授業とは
http://sobukawa-in-waseda.blog.so-net.ne.jp/2016-04-15