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父親というもの(1) [書評?]

個人的なことであるが、私の父親が他界してからすでに40年以上が経過した。1931(昭和6)年生まれの父が43歳の誕生日を目前に亡くなったとき、私は小学校5年生。3つ下の妹、さらに3つ下の弟を抱えた母は、今は悠々と暮らしているが、当時はずいぶん苦労したことと思う。

そんなこともあって、自分の人生には父親の影響がある意味で曲がった形で、一方でストレートすぎるほどストレートに反映している。もちろんその自覚ははっきりあるわけである。

20年ほど前、妻と知り合い、義父母と知り合った。義父は1930年、義母は1928年の生まれである。どちらもすでに亡くなっているが、同じような年代で同じような苦労をしてきている。彼らのヒストリーを聞き、それを思い出すにつけこういうものを語り継ぐことの重要性を感じるのだが、そんなことの延長線上でこんな本を読んでしまった。


生きて帰ってきた男――ある日本兵の戦争と戦後 (岩波新書)

生きて帰ってきた男――ある日本兵の戦争と戦後 (岩波新書)

  • 作者: 小熊 英二
  • 出版社/メーカー: 岩波書店
  • 発売日: 2015/06/20
  • メディア: 新書



終戦の前年に召集され、満州に派兵され、3年間のシベリア抑留を経て帰還した、筆者の父の口述に基づく個人史である。

筆者は私より1学年上で、昔から感覚が近いと思ってきた一人である。そんな書に対して、同い年で氏のの友人である、原武史氏が朝日新聞に書評を書いていた。
「父が息子に託す、希望こそが指針」
http://book.asahi.com/reviews/reviewer/2015081600004.html

このWeb版では割愛されているが、8月15日の同紙週末版には「友人の著書の書評は書かないという自ら課した禁を破って」とあった。原氏も大いに共感した部分があると見られる。原氏も昔述べたように、私は共感できるヒストリを持っている。彼らが束で来たらこれはその本を読むしかないのだ。

日教組?(曽布川旧ブログ)
http://takuya-sobukawa.blog.so-net.ne.jp/2009-09-10-2


簡単なあらすじは原氏の書評にゆだねよう。ここでは昭和一ケタである3人の親のことを、本書の読後感とともに述べたい。

私の父は前述の通り終戦時に14歳である。東京の子だくさんの家に職人の子として生まれた。生まれたころ一家は目黒区に住んでいたようである。祖父は浜松の曽布川家の分家の末っ子。のこぎりの目立ての職人だったようで、東京に出てきている。祖母は隣村の餡子屋さんの娘。早世した長女を含め、6男3女をもうけている。父は5男。会社員の長兄、教員の2人の次兄、すぐ上は技師。弟はやはり会社員である。変な姓なのですぐに行きあたりそうだが、昭和50年代まで都内の小学校、または高校の教員だったのはは私の父、伯父かその連れ合いであろう。かつてある電機系のメーカーの取締役には叔父の名前があった。

父の左太ももには小判大の傷跡があった。詳細を聞くことは叶わなかったが、ちょっと聞いたところでは米軍の機銃掃射の弾丸がかすめた痕だそうである。そして戦争末期には父方の故郷である静岡県浜松(なので、かの地には曽布川姓は珍しくない)に疎開していた。男6人のうち下の3人が一緒に疎開したようだが、兄は工業学校に進んで早くに浜松を離れ、弟はまた少し世代が違ったようで、当時の様子を詳しく聞き出すことも難しい。父は最初は鉄道学校に入ったようだが、それを早々にやめ、2人の長兄にしたがうように師範学校に通った。そのまま教員にもなれたのだろうけれど、学制改革の時期にあって新制・東京学芸大学に入りなおしている。本当は東京教育大学に入りたかったようだが、出願したものの家族の都合で試験を受けられなかったようである。そしておそらく、決して歓迎されていなかった浜松の疎開先から、早く東京に帰りたかったのだろうと思う。

父は学生時代は経済的にはずいぶん苦労したようである。冬は後楽園のアイススケート場の閉館後に氷面整備のアルバイトをして、焼きそば屋のあまりを食べるのがその日の唯一の食事だったとか、夏は野球場でビールの売り子をして、頭脳プレイで一人だけ売り上げを伸ばしていたとか、そんな話は聞いたことがある。

その学生時代は、まだ朝鮮戦争が始まる前で、時流に乗ったのかどうか、一方では「代々木」にも通っていたようである。両親が代々木辺りにあった施設で住み込みで働いていたことも関係があったのかもしれない。私の母の曰く、朝鮮戦争で突然レッドパージの風が吹き、教員採用試験には合格したものの初任地が北豊島郡内で、ずいぶんがっかりしたようである。しかしその十数年後には同じ北豊島郡内に家を建てることになり、引っ越しの時にはその最初の教え子たちが手伝いに来てくれたのだから、何が幸いするかはわからないものである。

父はその後、渋谷・穏田の小学校に転勤。今でこそ賑やかなところだが、当時は狐狸が出るようなところだったようである。数年前、そのころの卒業生のクラス会に呼ばれて出たがそんな話だった。その小学校の構内には「穏田の水車」が復元されているが、どうやら最初に校内にそれを復元したのは父であったらしい。

その在職中、32歳で母と結婚。母は山形の出身で小学校教員をしていた伯父の連れ合いの従妹。その伯父と気があった父は、一緒に蔵王温泉(当然山形です)にスキーに行き、そこで見染めたのだという話である。

結婚の翌年長男(私)が生まれている。その直後に日蓮宗大本山・池上本門寺の参道脇の旧青線地帯をつぶして作られた、東京都の教員住宅に居を移す。6畳と3畳の2間に台所、風呂トイレがついていた、当時としては文化的なアパートだと言えよう。それでも北東に面していたので、日当たりが良くない、長男が風邪をひきやすいのはそのせいなのか?などと思っていたようである。

長女、二男が生まれてのち、1972年、北豊島郡の荒川河川敷に日本住宅公団(現UR)によって造成された大きな住宅地に一戸建てを構えることになった。のちに色々と話題になった高層団地もそのころはまだ建設途中。その西側の住宅地も造成は終わったものの、バスで15分いかないと買い物もできない、小学校も当時の小学2年生の足では30分ほどかかった記憶がある。

翌年、家の目の前に新しい小学校が開校。新しくできた巨大な住宅団地群とその脇にできた新設の小学校。70年代前半のそういう状況は、多少極端なケースではあるがこのブログに述べたとおりであると言ってもいいだろう。

引っ越しの前年、父は文京区内の小学校に転勤する。小学校の理科教育において若手の中心として活躍していた父は、旧小石川区内が希望だったらしい。山の手のインテリが多く居住する地域で、その優秀な子弟に対して教育をしてみたかったということである(そう聞くと、今の発想では教員としての力量について若干疑問を挟みたくなるが、当時まだ30代だったので許してやることにしよう)。しかし意に反して旧本郷区の学校に配置になり、がっかりしたようである。3年して同じ旧本郷区内の小学校に転勤。ところが翌年体調不良を訴え、3年目に休職し4月に胃潰瘍(実は胃癌)を手術。翌年復職するも、夏には転移が見つかり帰らぬ人となったのである。

細かい話を聞かないうちに父は他界してしまったのだが、大体のストーリーはこんな感じである。小熊の父・小熊謙二よりも6歳下なのだが、その差はヒストリーとしてはずいぶん違うものになっている。伯父は2人応召しているが、戦地までは行かずに済んだようだし、その辺りがちょっとの違いでずいぶん違う人生だったと思う。小熊も「あと5年後だったらずいぶん違った人生だっただろう」と述べているが、全くその通りである。そして父のことを思えば、高度経済成長期にあって、いいタイミングで一戸建てを建てられたこと、もちろんそのために倹約して資金をためたわけだが、そのことが大きかったのだと思う。あと5年違っていたら家は立たなかっただろう。父は早く他界してしまったが、母が長男を中学から大学院まで私立にやり、長女を1浪ののち国立大学の医学部へやり、二男も高校から大学と私立にやることができたのは、この家があったからだと思う。母は父が亡くなるまで専業主婦でその後働きに出たので、母子家庭には違いない。だが家があったこと、そして周囲の人たちに支えられ、状況に恵まれていたからこそそれが可能だったのだ。父が家を建てられなかったら? 父がもう5年長生きしていたら? そう思うと何が幸いするのかわからないものである。

(あすに続く)

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