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父親というもの(2) [書評?]

昨日に続いてこの本の読後感など。





昨日は実父のこと書いた。今日は義父のことを少し書こうと思う。ただ妻には了解を得ていないし、詳細な部分については書きにくいこともあるのでご了解いただきたい。

義父は1930(昭和5)年、岡山の生まれである。軍医と小学校教員(職業婦人!)の家庭に生まれている。軍医だった父親は小笠原沖で戦死。義父はその関係もあって神戸二中から岡山一中に転校、六高に進む(第六高等学校といって何のことかわからない方は、ここおよびここを参照)。

義父はいわばインテリ層であった。しかし当時のインテリ層にありがちな方向に流れ、結局途中で「代々木」へ。(注:「代々木」については顔をしかめる人が多いかもしれないが、たとえば渡邊恒雄・読売新聞主筆もかつては「代々木」の正式なメンバーである。当時のインテリ層にはそういう人が多かった。)しかし「日本を変える」という無謀な夢は「代々木」の惨状をみてしぼみ、結局得たのは「肺病」だけであった。ほどなく岡山へ戻り、早島療養所(現・国立病院機構南岡山医療センター )へ入所。そこで入所者仲間のマドンナであった義母と結婚したのである。

小熊英二の父・小熊謙二は、シベリア抑留から帰国ののち、6年もの間結核療養所に収容されている。義父が受けた手術は、肋骨の切除を含むようなもので、小熊謙二の話よりは幾分ましなのかもしれないが、手術の後遺症、また手術時の輸血によるC型肝炎感染は最後まで苦労の種であった。

退所後、義父はある方の計らいによって働きながら資格試験を受け続け、「士」の資格を得た。義母と二人三脚で起こした「士」事務所では、それこそ骨身を削って仕事をし、義母も隣接する資格を取得して業務に邁進した。一方で義父はその資格者の地位向上などにも尽力した。全国連合会の青年部のお世話、県の会長などを歴任し、最後は全国連合会の副会長を務めさせてもらった。「代々木」のメンバーではなかったが、ある種「代々木」的なバイタリティがあったようである。長女は早く結婚、次女(愚妻)も結婚したのち、黄綬褒章を受けている。

義父が士業仲間で時々会っていたなかに、シベリア抑留経験者がいた。そのことについて直接話を聞くことはなかったが、マスコミなどで語られていること、また士業を開くに至った経緯などを聞くと、小熊謙二の体験は他人事ではない。

昨日から長々と無駄なことを書いているのだが、本書を読んで、こういうオーラルヒストリを記録しておくことの重要性を改めて感じた。なぜなら書く人・読む人にとってその内容が鮮烈に伝わってくるからである。シベリアの話は直接ピンと来なくても、アウシュビッツ=ビルケナウ収容所の見学をした経験と被せてみれば、ある程度実感を持って想像できる。可能な限り自分自身で直接体験すること、そして直接経験した人から話を聞くこと。そういうことの重要性は、どんなジャンルでも同じである。理科ならば「実験を」というだろうけれど、歴史だってこういう生き証人がいるのなら会わない手はないのだ。

そんなことをしみじみ思った本であった。
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