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東ロボのもたらしたもの [教育について]

「ロボットは東大に入れるか?」 というプロジェクトについて、ある一定の結論が出たという報告がなされた。

AI研究者が問う ロボットは文章を読めない では子どもたちは「読めて」いるのか?
http://bylines.news.yahoo.co.jp/yuasamakoto/20161114-00064079/
この記事を法政大の湯浅誠氏が書いているところがなかなか興味深い。

このプロジェクトのサイトはこちら。 http://21robot.org/

このプロジェクトはそもそも
これからAIが発達していく状況にあって、人間は何をすべきか?

という問いから始まったものである。大昔、このプロジェクトの中心の一人である新井紀子氏が朝日新聞にコラムを書き始めたことを今でも鮮烈に覚えている(その紹介がここにあった。2009年1月)

今回のとりあえずの結論はなかなか興味深い。
ロボットの弱点は「文章が読めない」ことだ。しかし英語や国語でそれより点数が低い子どもたちは文章が読めているのか?

このことを言い換えてみれば
ロボットは「解くこと」は得意だ。しかし「わかること」は出来ない

ということになると思う。

それで昔から言ってきたことである。わかると出来るは違う。旧ブログおいて「分かる」を検索してみた。
http://takuya-sobukawa.blog.so-net.ne.jp/search/?keyword=%E5%88%86%E3%81%8B%E3%82%8B

すなわち人々は「解けるかどうか」「点が取れるかどうか」にばかり執着する。大学受験みたいなことばかり考えているからそうなるのだ。よく
色々言うけれど、あんたは大学受験が分かってない

と言われたけれど、そして「あの~こっちは出題・採点してるんですけど~」と常に思ってきたのだけれど、結局ここに今の日本の教育の大きな問題があるのだ。

「文章が読める」「事柄が分かる」ためには何をしたら良いか。

そこで出てくるのが私の標語の1つ。
小学校低学年の主要三教科は、図工と体育と音楽である

幼児教育においては当然そうなのだが、ここの充実がその後の言語理解(国語、英語、算数・数学)に大きく影響するのだ。

それはなぜか。そもそも「理解する」ことを私はこのように定義づけている。
わかるとは、(新しい)情報を、既知の経験・知識と結びつけて一体化できた状態


一旦学んだことを、年月が経ってから蒸し返して改めて分かるというようなことがよく起きる。それは、かつては一体化が出来ていなかったか、弱かったか、ある特定の知識としか結びついていなかったのが、他の知識、その後に会得していた知識などと改めて結びついたことを表す。

これら「理解」の起点として重要になるのが、経験である。しかもその大本は身体を使ったものである。

たとえば、明治大学・齋藤孝氏などが最初に出したのは、「文章を声に出してみよう」であった。つまり身体的な経験が理解を深めるということである。私の言い方に則れば、理解の起点を深く掘り下げたことになる。

ところがAIにはこの部分は不可能である。AIに取って感覚的な理解というのはない。すべて論理的な理解である。たくさんのデータから一番相応しい(正解の可能性が高いもの)を選ぶことは出来ても、そういう論理的なつながりでしか有り得ない。

私は長らく
「論理的な理解など有り得ない、直感的な(直観的な)理解しか有り得ない」
と叫んでバカにされてきた。しかし東ロボプロジェクトの結論は
感覚的な理解がなければ結局は崩れる

と言っているのだ。今回こういう報告が出て、新井氏らがきちんとこの辺りを指摘してくれていることに感謝し、敬意を表したい。

結局やるべきことはこれなのだよ。


理系と文系とアイドル論と [書評?]

気がついたら1か月以上も何も書いていなかった。確かにいろいろと忙しかったし、ちょっと前ならブログに書いていたであろう内容をtwitterに連投で書いてしまったこともある。

まあそんな言い訳はどうでもいいとして、前からずっと大きな声で(それでも大したことはないけれど)叫んでいたことがある。

理系・文系という分類はナンセンスだ


前職時代の旧ブログではこの話をさんざん書いてきた

歴史的には、東京帝国大学が「理科」「文科」と分け、それに合わせて旧制高校が同じクラス分けをしたことに端を発するが、昨今は受験生獲得のために入試科目が減らされ、それに対応して「数学が得意かどうか」で「理系」「文系」といった区分けがなされるようになったのである。

ところが実態を見てみると
公式・解法を覚えて計算して答えを出すことができる=理系
用語を暗記でき、いい加減な文章をごちゃごちゃ書いて悦に入れる=文系

という風になっているようである。わが早稲田大学ですら、そういう傾向が見える。全く持って理系でも文系でもあらゆるものに対して冒涜しているとしか言いようがない。

こういう教育が蔓延している中、それでも心ある教育者は、小中高、また予備校にも、もちろん大学にも一般企業にもおられる。

そういう意味でネット上で注目している人が何人かある。お会いしたことがある方もあるし、ネット上でしかお付き合いがない方もあるのだが、そんなうちの一人から、新刊が送られてきた。


アイドル論の教科書

アイドル論の教科書

  • 作者: 塚田 修一・松田聡平
  • 出版社/メーカー: 青弓社
  • 発売日: 2016/11/01
  • メディア: 単行本


著者の一人の松田氏は、東進ハイスクールの数学講師として有名な方である。昔は多くの予備校で最悪な数学の教え方をしていたと思うが、それに染まった人たちが現在数多く公立学校の教師をしている一方で、予備校で教えている人たちの中には、本当に立派な教育をしている方が何人か見られる。それは単に目先の受験テクニックではダメで本質を学ばなくては大学受験に勝てない、勉強だけではダメで幅広く教養を深めないと受験だけでなく大学入学後に伸びないということを説いている人たちである。松田氏はまさにそういう方だと思っていて、twitterなどで時々相手をしてもらってきた。かつて高校数学の問題集を恵贈されたことがあったのだが、そういう点で素晴らしいものであった

で、今回。今度は私の専門たる数学・数学教育の話ではない。「アイドル論」である。おじさんたる私は、アイドルそのものには全く興味がない。昔のアイドルは一応顔や名前は知っていて、今テレビなどに出てくれば一応わかるが、その程度だ。そんな私になぜこんな本を?

だが松田氏がわざわざ送ってくれたものなので、とりあえず読まなくては失礼だ。それで最初から読み始めたのだが、塚田氏による前書きを読んでその意図がすぐにわかった。一部引用してみよう。

ただ論考を読んだだけでこの本を閉じるということはなるべく避けてほしいと思っている。というのも本書の各講は、ただアイドル文化の「分析」を記述しただけのものでもなければ、読者に正しい知識を与えるような「啓蒙」を主眼としたものでもないからである。(中略)本書の論考が企図するのは・・・各論考で読者を「触発」すること、そして読者自身の手で各論考の「応用篇」を紡ぎ出してもらうことである。(中略)本書でアイドル文化の豊穣さを感じてもらい、またアイドル文化が日常化したこの世界で遊泳するための知的体力を養ってもらえればと願っている。


題材はアイドル論なのだが、その内容を主張しようしていない、むしろ読者がそれぞれ自分で考えるための縁にしてほしいというのだ。

前に、大学教育について大きく3つの枠組みを設定してみた。

「大学の授業とは」 http://sobukawa-in-waseda.blog.so-net.ne.jp/2016-04-15

そこでは「トレーニング系」という言い方になっているが、もう少し丁寧に述べるならば「方法論」を学ぶということだと思う。旧ブログで紹介したが、MITを始めアメリカの大学の学部は、物事に対する取り組み方、考え方を鍛える場であるそうだ。私もそのことに思い至って、現在はそういう授業を2種類開講している。

で、今回の本は、社会学者である塚田氏と、建築科卒で数学教師である松田氏が、それぞれの得意なアプローチで「ももクロ」「AKB48」を中心としたアイドル論に切り込んでいる。一応話はこの二人を「文系」「理系」とカテゴライズして章立てが組まれていて、それぞれに全く異なる内容も盛り込まれている。その中で面白かったのは、それぞれの分担の章に、もう一人の著者が食いついている「コラム」だ。そこを見て確信したのは、塚田氏も「理系」がわかるし、松田氏も「文系」がわかるということだ。つまりこのようなカテゴライズはあくまでも便宜上のもの、最初の入り方の違いであって、最終的には別物として分けるべきでないということだ。言い方を変えれば、それぞれは個性としてとらえるとしても、こうやって混ざりあってさらに深いものができる(はずだ)ということだ。実際、2人は顔を合わせれば議論をするのだという。ジャンルの違う人と議論をすることほど刺激的なことはない。ただしそれをいいものとして捉えるためにはそうとうな度量がいるのだが。

なんとなくぼやっと読んだ上で読者たちがそれぞれ勝手なことを言う


というのが著者たちの狙いだということだが、それは実は(大学)教育が本質的に目指すべきことなのではないだろうか。

こうした刺激をくれるいい友人を持ったことに感謝したい。

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