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ごちゃまぜのラーニングセンター [教育について]

久々に、どうしても書きたくなった。

日本の教育問題の根本にある「学年学級制」を克服する大胆提言
「未来の学校」とはどんなものだろうか
https://gendai.ismedia.jp/articles/-/65486 

このところ、こっち方面はご無沙汰ではあるが、昔から注目していた苫野一徳氏の近著からの抜粋だという。

昔々あるところに。もう四半世紀も前のことである。

私が前職・岡山大学教育学部に赴任して初めて附属小学校の公開研究会を見に行ったときのこと。
当時、あそこにはまだ「ていふく」「ちゅうふく」というクラスがあった。
漢字で書けば「低複」「中複」。1,2年生の複式学級、3,4年生の複式学級である。

当時から岡山県内では複式学級が各地に展開されており、それを研究するためにこうしたクラス編成がしてあったわけである。自分は複式学級など見たことがなかったので、「低複」の算数の授業を見学に行った。忘れもしない算数部会所属で低複担任のF先生の授業。しかもそのクラスは20+20という、普通の複式ではあり得ない大きなクラスだったのだが。

まずは2年生にはプリントを配って(公開授業用に、予め机の中に仕込んであったのはまあよしとして)計算の復習をさせる。その裏で1年生にも別のプリントを配って曰く「今日は虫取りをしよう」。形の分類といった話だったように思うのだが、2年生は一斉に1年生の方を見る。もちろんそこまで織り込み済みだ。そして説明をしてプリント上で作業をさせる。そうしているうちに今度は2年生は無私の数を数えて計算に向かう。確かそんなことだったように思う。

同じ算数の授業で、違う内容ではあるのだが、関連した題材を選ぶ。相互の影響があることを前提にして授業設計をする。こういう世界を全く知らない私は、本当に感動したものであった。

数年後、F先生は愚息1号の1年から4年までを教務主任(実質的には副教頭格)としてご指導下さり、継いで教頭になられて異動、その後岡山大学教育学部に実務家教員として来られ、最後はまた小学校および県の施設の長としてへ戻って行かれた。ご自身曰く、算数よりも特別支援教育の方が本職だと言われたが、書道専科や家庭科専科(男性の先生である)として素晴らしい指導を愚息に施して下さった。今でも尊敬する先生の一人である。

さて。今回の苫野氏のこの抜粋記事を見て、複式学級のことを思い出した。実際に岡山大学教育学部附属小学校に通った(当時の)子どもたちに聴いてみると、複式はクラスの仲が特に良く、クラス替えでばらばらになってもその絆は消えず、複式に行かなかった子たちからはうらやましがられたのだという。

もちろんこんな大人数の複式学級の授業は難しい。あの学校では部分的に教科担任制であったから出来た部分もあるとは言える。しかし今の学校で20人クラスを目ざすのなら、最初からこのように複式で組んで担任を二人付ける方がいいのではないかと思う。

理由はよく分からないが、同小学校の複式学級はその後なくなってしまった。地方都市においては「優秀な子が集まる小学校」としての機能が強調されるようになったのかも知れない。それをとても残念に思ったことを思い出した。

苫野氏の言う「ごちゃまぜのラーニングセンター」。日本語が十分に話せない子がいたり、学習障害のある子がいたり、逆にうんと優秀な子や受験をしちゃうような子。病欠で留年してきた子の居場所にもなる。それは単に多様性があるというだけでなく、それを吸収することの出来る集団。

この発想に賛同するし、大きく取り上げられないかと期待している。
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教養教育の方向 [教育について]

相変わらず過疎過疎なこのブログ。しかし久しぶりにtw連投をやめてこちらに書いてみる気になった。

こんなtwを見たのが発端。
https://twitter.com/nobu_akiyama/status/1137606448282628096
この先生の連投に全く異議はない。

そういえば、かのラジオ先生がこんなことをつぶやいてた。
https://twitter.com/marxindo/status/1137504501793927168

ラジオ先生とほとんど同年代の私は、直接ではないがそれをよく見てきた。

残念ながら、昔の国立大学の教養部における教育には問題があったと思う。

自分に近い分野しかわからないが、昔の「教養部」の数学は「線形代数」と「微積分学」を教えてるだけだった。その重要性に文句を言うつもりなど微塵もないが、ただその授業をすることだけが目標になっていたような気がした。

これは何のために学ぶのか。その前にそもそも学問は何のためにするのか。そうしたことを等閑にして、単に普通に授業を行い、出来がいいだの悪いだのという話をしていたのではないかと思う。

それでは高校の延長に過ぎない。大変に残念なことであるが、その当時「そもそも教養教育はどうあるべきか」という議論がどの程度行われていたのかよく知らない。児美川孝一郎先生のこのシリーズ
https://jbpress.ismedia.jp/articles/-/56521
に詳しいが、「専門課程が上、教養課程は下」という見方に加え、「研究は上、教育は下」と言われてしまっては、教養教育のあるべき姿をまじめに考えようという人はごくまれだったのだろうと思う。

学生や世間は「パンキョー」と言ってバカにし、「専門科目を重視せよ」などと企業が叫ぶに至っては、「大学の大綱化」とかいうよく訳の分からない話に乗って、教養部解体・教養教育軽視の流れは止められなかったとは言える。1991年からなのだそうだ。その頃は大学教員が外国に行くことがそれほど頻繁ではなかったように思う。ちょうどその91年、ある若いが偉い先生が集中講義に来られて一緒に飲んだとき、君たちもどんどん外国に出なさい、と言って、行き先の探し方などまで教えてくれた。今ほどインターネットが普及していない時代である。

その頃に例えばアメリカの大学の様子などがもっと知れ渡っていたらその「大学改革」もずいぶん違ったのだろうと思う。

そうして完全に壊しておきながら、世間は「やはりイノベーションが大事だ」などということを言い始める。ではそのためには何をすればいいのか。

教育で言えば、学問の基礎(語学やICTなど)、学問に対する姿勢や哲学(なぜそれを学ぶのかなど)を鍛える、もしくは学ぶ体勢を教えることが必要であったわけである。

以下、自慢話になるかもしれない。自分が出た慶應義塾の理工学部は、今は少しタイトになったのかもしれないが、基本的に専門を狭くしない形で学び始める。数学科に進学するつもりでも、物理や化学を結構取らなくてはならない。専門の数学については、少なくとも自分が学生の頃で言えば、他大学と比べて1年遅れという感じである。しかしそれが今になって様々なところで役に立っていると思う。

もっと言えば、大学4年間の授業でその後最も役に立ったものは何か?と言われたときに、そのベスト5に入るものとして、「倫理学」(哲学概論に相当する内容だった)「基本体育(実技)第3クール・徒手体操」「英語(担当:タコ先生)」が間違いなく入ってくる。現在英語が(できないまでも)怖くないこと、教育に関して基本的な姿勢を常に検討する気になっていることなど、直接的に役に立っている。だが当時はそんなことはわからないし、たまたま必修科目のクラス配当で当たったものだってある。

細かく計画されたものであるはずもないが、こうした出会いが教養教育にはあるのである。

そもそも大学なんてそんなものだ。

昨今、また大学に求められるものが変わってきている。求める側は勝手なことを言う。本当は大学の側はそんなことに右往左往してはいけないのだ。だが残念ながら学問とは何かを考えもしない、入試で良い点を取ることには長けていても、ちゃんと研究をしたことがない学歴の低い人(ここでは学部卒の人をそう呼ぶ。大学名に意味はない)が予算配分の権限を握っていて、その力で大学を動かそうとしている。残念ながら学問経験の薄い官僚が、その道の碩学たる各大学の総長を呼びつけて、ふんぞり返って話を聞いている。

近年、国公立大学から私学へ異動する教員が増えているという。自分もその一人である。だがおかげさまで現職においては、「本当に必要な教養はなにか」「学問をするとはどういうことか」といった根本を考え、それを教育に活かすことができるような立場にある。自身の研究はもちろんだが、こうしたことに力を注ぐことが出来るのはやりがいがあって幸せなことである。
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「そうなんだぁ~」撲滅作戦 [教育について]

気がついたらもう2ヶ月半も何も書いていないわけで、まあ早稲田に来てから変わらないとはいえ、ひどいペースに成り下がっている。まあ日々が忙しくて、義務でもなければ金にもならないブログに書いているヒマはないといえばそれっきりなのだが。

と言っているうちに、久しぶりに書きたくなったのでサイトを開けた。

そのきっかけはこのTWである。
https://twitter.com/chiki_okumaneko/status/987628777634058241

まあ魚拓を取ることもないと思うので、時間が経って切れてしまったらごめんなさい。
その内容をかいつまんで言えば
学生たちには「教科書は批判していいものだ」という発想がなく、教員が著者の仮説に異議を唱えたことに違和感を感じている、高校までに教科書は絶対に正しいと信じ、鵜呑みにしないといけないと思ってるらしい

である。

長く数学を教えてきた中で、一番問題に思うのがこの辺りである。最初にコメントしたいのは
定義を疑うこと

数学者に言うと笑われるわけだが、そもそも定義とは何かすらわかっていない者が大半なので私はこの話を時々する。
定義とは用語や概念を規定した文

これに対する異論はたくさんあることはさておき、とりあえずこの程度のことですら「知らない」。
その上で、数学者がこれを笑うのは
定義は定義なんだから、そう決めるとして話が進むのだから

である。もちろんwell-defined-ness を問うのも大切なことだが、それよりもっと手前のこと。

定義がわかるのか?


その中で重要となってくるのは、そもそも「定義がわかるとは何か」、さらに言えば「わかるとは何か」である。

見てみたらちょうど2年前の今頃に書いていた。
改めて、「わかる」ってなに?

一言で言ってしまえば、ここで大切なのは
実感が伴わければわからない

ということ。定義は文字通りの解釈だと言っても、その世界に通じていない人にとっては直感的な理解が大切である。逆にその世界に精通していれば、その世界に感覚的に入っているだろうから、文字通りだろと言ってしまっても実際はそうではなく、感覚的にわかっているのだ。

言い換えれば、公理的な形で定義というものを受け入れさせることは、実は相当多くの人にとって大きな障壁となるのである。

早稲田に来てからはその仕事はなくなったが、昔やっていた教員免許更新講習ではよく
「3とは何か」「2+3=5とは何か」
という題材を取り上げていた。
そもそも数(数字ではない。数字は単なる数の表現形態の1つだ)の概念は非常に抽象的なものである。量と結びつけながら、計算の習熟をさせながら、長い時間を掛けて子どもたちの感覚の中に養成していく作業は決して簡単なものではない。

それをせずに、「にたすさんはご」と暗記しても、それだけでは何の意味もない。こういうと「掛け算九九の暗記は意味がある」とかいう反論が来るので先に言っておくが、あからさまに覚えているのはその「丸暗記」の部分であるけれど、その背後にはたくさんの感覚的な理解に至るための指導や経験が積まれているのである。それをたくさん経験しながら結果的に「暗記する」、もしくはとりあえずある程度暗記してしまって、その経験を重ねて理解に結びつける、というのがあるべき姿である。「歌で覚える掛け算九九」なども、そこで終わっては話にならない。

数学(算数)はそんなわけで出だしからとても抽象的である。それでも成長と共に認知能力が上がっていくと、その学ぶべき抽象度も上がっていく。よく取り上げられる「9歳の壁」というのもそれであるし「中1ギャップ」というのもそれである。そこで「丸暗記」でくぐり抜けようとすると、その瞬間は上手く誤魔化せても、そのツケが必ず回ってくるのである。「暗記でなんとかなる」という方向で誤魔化しを重ねてきた人は、どこかでそれが通用しなくなると全くダメになってしまう。

「小学校の算数はよくわかったが、中学校以降の数学は捨てた」
「中学時代は優秀だったはずなのに、高1で数学を落ちこぼれて、もう見るのもイヤ」

みたいなのは、段階が上がるときに必要なフォローを受けられずに来たのだろうと思う。

さて、そこまでを前提として。これを裏返せば、感覚的にわからないものは「わからない」で良いのである。たとえば分数の加法。丸暗記させるならばその定義は
a/b+c/d=(ad+bc)/bd
である。

冗談じゃない、誰がこんなわけのわからないものを?

ずいぶん前に「分数の出来ない大学生」というのが流行ったのだが、この観点に立てば驚くことではない。「暗記」でその場はクリアしても、本質が感覚的にわかっていないと覚えられないし忘れてしまうのだ。しかし考えてみよう。上の「定義」は不自然である。横棒の上下に書くから馴染みがあって小学生でも出来ると思うかもしれないが、これをベクトルの形で
(a,b)+(c,d)=(ad+bc,bd)
と書けばその不合理性はわかるだろう。自然なのは (a,b)+(c,d)=(a+c,b+d)すなわち a/b+c/d={a+c)/(b+d) である。

ここでいう「暗記」のもたらすもう一つの害が、
これだと言われたら闇雲に信じて覚えようとする
である。とにかく覚えて答案に書くことが良しとされるので、疑いなど持たないほうが良いのだ。中学受験の指導で「考えてはいけない」と教える塾があるように聞くが、なにをか況んや。そんなことをして「トーダイ」なんぞに入ってナンボのもんだろうということは思う。

自分の担当する数学でも似たようなことがある。細かくは書かないが、たとえば「行列の積」。上の分数の加法と同じように、定義を暗記しようとしても、非常に理不尽なものである。拙著「基本 線形代数」は偉い先生との共著だが、特にお願いして第0章に「食塩水の濃度問題」(線形変換の具体例)を書かせてもらった。変換の合成から行列の積の定義が出てくることを先に扱っておき、その後で改めてきちんと定義をする。さらにその上で計算練習を重ねてながら折に触れて食塩水に戻り、上記の通り計算の習熟と内容の理解を行き来するようにしている。少なくとも講義ではそのように使っている。

その際に、行列の積の定義については最初から言ってしまう。
申し訳ない。これは非常に不可解な定義だ。納得できない、こんなものはイヤだ、と言ってもらって構わない。というよりむしろ、変だぞ、イヤだぞこんなの、と言う方が真っ当だ。「ああそうなんだぁ~」などと言ってほしくない。

ここはとても重要なポイントである。言いたいことは最初から疑ってかかれ、ということ。教科書に書いてある数学でさえもそれ。でこの場合、説明はこう続く。
もちろん、違う形で定義をしてもらっても構わない。なんでも構わないと思う。それは新しい数学だ。それはそれで素晴らしい。是非そうやって何か新しい世界を作って、役に立ててもらいたい。

「役に立つ」の意味は「世間で」でも「数学の世界で」でも何でもいいわけだが、そういう姿勢については常に言うことにしている。そして追い打ちに言う。
「そうなんだぁ、覚えとこ、計算して点が取れればいいや」という考え方は、自分はこの世の中で要らない人間であると大きな声で主張しているようなものだ。なぜならこんな計算はコンピュータが、というかフリーのサイトですぐに答えを出してくれるのだから、それが出来ること自体は意味がないのだ。そんな意味のないことを目的にするということは、自分が無駄な存在だというようなものだ。私はこれから未来を作って行く若い諸君がそんな存在であるとは思いたくない。


世の中の方向はどんどんそちらへ進んでいる。なんとかその流れを食い止めなくては。少なくとも自分の周りだけでも食い止めなくては。
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卒業論文の指導 [教育について]

年が明けてずいぶん経って今頃の投稿というのも、毎年のことになってしまってしまいました。

さて。

年末から年始に掛けて、ネット上でお見かけする大学の先生たちから「卒論読まなきゃ」「卒論添削辛い」みたいな発言(悲鳴?)が相次ぎました。しかし私からすると「?」という感じなのです。

早稲田ではそういうポジションではないのですが、かつては卒業研究の指導もたくさんしてきました。ジャンルが「数学」「数学教育」であることがもしかしたら特殊な例かもしれないのですが、正直に言うと私は

卒論原稿を全部読んで添削したことがない

のです。なので先生方のご苦労がよく分からないのです。

かつての私は、学部学生は3年次から指導していました。3年次はいわゆる「原典講読」です。そこで理解するためにはアウトプットをすることが効果的であることを学び、その中で深く考えることをします。

4年の秋までには最低10ページは書いて持ってくるようにさせます。最後の数年は9月末に中間発表会を行いました(もちろんそれは宴会の種なのですがw)。

当時問題だったのはTeXの扱い。慣れないうちは思うように走りません。最初は大抵、1ページ書くのに4,5日はかかります。ところが次の1週間でもう5ページ、さらに1週間で10ページはかけるようになり、加速度的にスピードは上がります。ただしここで言うのはTeXの技量だけで、内容のことは別です。数学では学部レベルでオリジナルな卒論が書けるケースは希有で、ほとんどは自分の勉強したことをまとめることになります。最初のメインのテキストは英語、それ以外のテキストも最低3冊ぐらいは参照させますがそれは日本語、最終的に書くのは日本語でしたから、内容のことはさておき勧めることだけはできます。

その初稿の最初の2ページぐらいはしっかり読みます。てにおはも含め、頓珍漢な文章は徹底的に問い詰めます。大切なのはそこで

学生自身がいい加減な文章を恥ずかしく思う

という状況を作ることです。多くの場合、自分の書いた文章を朗読させます。その段階で論理的でない、意味の通らない文章を書くことに対して学生自身が納得できないようになる。これがもっとも重要な指導です。

論文の枠組みについてもその段階である程度決めさせる。執筆の進捗の報告のときに毎回聴くのはその枠組みを変える必要があるか?という点がメイン。細かい文章を自分で見直して校正できるようにする方が指導教員にとっても学生本人にとってもベターなのです。

残念ながら、学部生の卒業論文は、書いた本人と指導教員以外の目に触れることはほとんどない。それでも自分の人生の中の大切な一里塚として、自分に恥ずかしくない文章を書かせる。そこで言うのは、

「(大学としてはそれを要求しないのですが)卒論はハードカバーで製本せよ、そしてそれを一生自分の本棚に置け」です。

大半の学生が卒業研究の中味など忘れてしまうでしょう。しかしその時の努力は一生忘れないのです。その背表紙を見るだけで自分の学生時代が思い出せる、逆に言えば未来の自分に対して恥ずかしくない努力をせよということなのです。もちろん開けてみて読み返すこともあるのでしょう。そのとき反省することがあればそれはまたそれで良し。

我々が研究者となって論文を書くとき、もちろん第三者に校正させることはあるでしょうし、査読者などから意見をもらうことはあるでしょう。しかしそれはおまけのようなものであって、自分自身できちんと書くことが最も大切なことなのです。

その雰囲気を学生に味わわせてやれればそれでいいのではないか。

そんな調子なので、私は学生の卒論を全編読んで朱入れなどしたことがありません。

さらに言えば、論文提出後に口頭発表会があるので、それはまた指導のポイントになりますがそれについてはまたいずれ。

とまあ書き殴って今年もスタート。何回記事を書くやら。

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偉い人は偉い [教育について]

昨日は、弊社教育学部数学科の忘年会に顔を出してきた。
来年から授業担当をすることから、呼ばれたのである。

ここには偉い人がたくさん来るのが分かっていて、そういう方々とどういう話になるのか楽しみにしていったのだが、予想以上に面白かった。

まず、もうじき定年退職されるI教授。もう少し年が若ければ、数学のノーベル賞とも言われる「フィールズ賞」を間違いなく受け取っていたであろう方。実際、彼の共同研究者が受け取ったわけだし。

先般、その先生の指導学生のことで少しご連絡をして挨拶に行ってそのときから立派な方だとは分かっていたのだけれど。今回もそんな偉い数学者にもかかわらず出てきた話が「大学院生には手を掛けてやらないとねぇ」と。穏やかな話しぶりと共に改めて大ファンになってしまいました。

次いで、もう数年前に引退されたS先生。数学教育の世界では知らない人がない著名な方。他社を引退してから弊社に来られ、それでも7年ほどおられた。よく知った先生に紹介してもらったのだが、気さくな方。ところが現在、他社でS先生の後を継いでおられる、現役としてはとても有名なある先生について「あれじゃあダメなんだよ、まだこれが足らん」と。この手の話は得てして単なる老害のことが多いし、逆に私は直接話したこともないのでなんとも言えない部分があるので、誰のことだか分かってしまうので細かくは書かないけれど、一般的に言えばそういう傾向はあるなという感じ。そしてそれ自体は私もその業界の多くの人達に対して感じること。

またもう一人、定年が近いW先生。これがまたS先生と同じようなことを言うわけですよ。この業界における(世界的に)有名なこいつら5人はみんな俺の弟子だ、しかしあいつらは。S先生がおっしゃるのと同じことを言われる。こちらは若干偏屈な方なので、素直に聴けない部分もあるのだけれど、本質的には私と同じことを考えていた。

こっちもいい年してるわけで、偉い先生に「誉めてもらってうれしい」「同意してもらってうれしい」みたいな感じではなくて、「こいつらもオレと同じことを考えてたんだな」という図々しさしかないんだけれど、でも少しやる気が出てきた。

うむうむ。すべきはこれだよ。

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やっぱりすげえ人はすげえ。 [教育について]

あちゃー、2ヶ月ぶりだ。

基本スタンスとして、音楽とか身の回りとかの話はFacebookに、数学とか教育の話はTwitterにちょこっと書くことにしている。Twitterに書き切れなくて、しかも残しておこうかという話があったときだけブログに書くことになる。

まあそんな言い訳はともかく.

このところ数学の研究会・勉強会のようなものにいくつか参加させていただいている。普通の人には「学会」という言い方をした方がいい類いのものであるが、特にこの1ヶ月ほどの間に参加したものは、数学のジャンルは色々であるけれど、その姿勢がとても好感が持てたというかありがたいものばかりであった。

およそ「学会発表」というのは、「新しい研究成果を報告する」ことが主である。基本的に最新のもの、最高峰のものは何か、に興味がある。それは最も大切なことであるのは間違いないのだが、一方でそういうものは「先鋭で」「専門的」である。他のジャンルのことはわからないが、数学の世界においては、数学者同士、またその中でも近いジャンルの研究者同士であっても全く理解できないことがよくある。そうなるとなかなか辛いものがある。

一方、そういう専門的な内容を発表する側の立場に立ってみるのもまた面白い。自分はこんな新しい研究成果を出したという発表をするとき、どうしてもその苦労話なりアイディアなりを言いたくなってしまう。数学で言えば「定理」が成果で「証明」はその苦労話である。数学の講演は短いと10分とか15分。長いと60分や90分などもあるが、仮に90分もらったとしてもその細部まで説明するのはなかなか難しい。

さてそこで何をするのか。大変残念なことに、昨今はコンピュータを持ち込んでプロジェクタを使って発表することが大半である。そこにどんどん内容を持ち込んで、たとえば30秒に1枚の画面を出せば10分で20枚使える。ノートに書いて20頁を超える証明はそれほど多くないから、なんとか出せることになってしまう。

いやいや、待て。しゃべる方はそれで良いとしても、聞く側はついて行けないよ。そんな学会講演がたくさんある。ひところ、日本数学会の機関誌「数学通信」には、そういう講演をしてはいけません、みたいなことが毎号書かれていた。しかしそれが上手く行っているかというとなんとも言いがたい。若い研究者に興味を持ってもらおうということで、修士の学生にもわかるようなサーベイ講演をと言って始まったシリーズも、その半分以上は始まって10分で挫折し、残り50分寝てしまうようなものばかり。そう簡単にはいかないなと思ったものである。

さて。

今の時期は大学教員にとって大切な時期でもある。基本的にどこも講義は終わっている。入試業務は学校によってそれぞれだけれど、比較的人々が都合を合わせやすいようだ。なので各地で「学会」が行われる。最近自分が出席させていただいた会は、どれも「ちゃんと勉強できる」会になっていた。京都、岡山、金沢、そして早稲田での会に出たがその典型は京都や岡山での会。上記のようなプロジェクタ使用の原則禁止。黒板で書きながらの講演を主催者から依頼していた。40分とか60分とかそういう時間で黒板となると、内容も厳選しなくてはならない。しかも成果発表よりも門外漢向けの講演をということで、さらに原理に戻った話ばかりだった。金沢での会も偉い先生方がそういうつもりで講演をして下さる。早稲田での会は講演1つしか出られなかったが、それも本質はここ、一緒に計算してみよう、みたいな語り口であった。

ここで大切なのは、その講演者の方々は本質を深く理解し、平易な言葉で語れる方々であるということ。この研究会シリーズの前に出席した集中講義(1週間ほどで2単位15回分の講義をしてしまう。当然まとまった大きな話が聞ける)も、本質を深く理解した講師の話が、専門外の自分にとってもとても有意義だった。

実を言えば、〇〇先生に久しぶりに会えるからとかそんな理由で参加したものもあったのだが、そんな裏事情があろうと結果的に良かったものは良かった。

こうやってちゃんと出来る先生方もたくさんいらっしゃることを嬉しく思った。


東ロボのもたらしたもの [教育について]

「ロボットは東大に入れるか?」 というプロジェクトについて、ある一定の結論が出たという報告がなされた。

AI研究者が問う ロボットは文章を読めない では子どもたちは「読めて」いるのか?
http://bylines.news.yahoo.co.jp/yuasamakoto/20161114-00064079/
この記事を法政大の湯浅誠氏が書いているところがなかなか興味深い。

このプロジェクトのサイトはこちら。 http://21robot.org/

このプロジェクトはそもそも
これからAIが発達していく状況にあって、人間は何をすべきか?

という問いから始まったものである。大昔、このプロジェクトの中心の一人である新井紀子氏が朝日新聞にコラムを書き始めたことを今でも鮮烈に覚えている(その紹介がここにあった。2009年1月)

今回のとりあえずの結論はなかなか興味深い。
ロボットの弱点は「文章が読めない」ことだ。しかし英語や国語でそれより点数が低い子どもたちは文章が読めているのか?

このことを言い換えてみれば
ロボットは「解くこと」は得意だ。しかし「わかること」は出来ない

ということになると思う。

それで昔から言ってきたことである。わかると出来るは違う。旧ブログおいて「分かる」を検索してみた。
http://takuya-sobukawa.blog.so-net.ne.jp/search/?keyword=%E5%88%86%E3%81%8B%E3%82%8B

すなわち人々は「解けるかどうか」「点が取れるかどうか」にばかり執着する。大学受験みたいなことばかり考えているからそうなるのだ。よく
色々言うけれど、あんたは大学受験が分かってない

と言われたけれど、そして「あの~こっちは出題・採点してるんですけど~」と常に思ってきたのだけれど、結局ここに今の日本の教育の大きな問題があるのだ。

「文章が読める」「事柄が分かる」ためには何をしたら良いか。

そこで出てくるのが私の標語の1つ。
小学校低学年の主要三教科は、図工と体育と音楽である

幼児教育においては当然そうなのだが、ここの充実がその後の言語理解(国語、英語、算数・数学)に大きく影響するのだ。

それはなぜか。そもそも「理解する」ことを私はこのように定義づけている。
わかるとは、(新しい)情報を、既知の経験・知識と結びつけて一体化できた状態


一旦学んだことを、年月が経ってから蒸し返して改めて分かるというようなことがよく起きる。それは、かつては一体化が出来ていなかったか、弱かったか、ある特定の知識としか結びついていなかったのが、他の知識、その後に会得していた知識などと改めて結びついたことを表す。

これら「理解」の起点として重要になるのが、経験である。しかもその大本は身体を使ったものである。

たとえば、明治大学・齋藤孝氏などが最初に出したのは、「文章を声に出してみよう」であった。つまり身体的な経験が理解を深めるということである。私の言い方に則れば、理解の起点を深く掘り下げたことになる。

ところがAIにはこの部分は不可能である。AIに取って感覚的な理解というのはない。すべて論理的な理解である。たくさんのデータから一番相応しい(正解の可能性が高いもの)を選ぶことは出来ても、そういう論理的なつながりでしか有り得ない。

私は長らく
「論理的な理解など有り得ない、直感的な(直観的な)理解しか有り得ない」
と叫んでバカにされてきた。しかし東ロボプロジェクトの結論は
感覚的な理解がなければ結局は崩れる

と言っているのだ。今回こういう報告が出て、新井氏らがきちんとこの辺りを指摘してくれていることに感謝し、敬意を表したい。

結局やるべきことはこれなのだよ。


新・センター試験について(2) 記述式の試験について [教育について]

大学入試センター試験を改革するとかいう話で、記述式で解答する問題を作るという話が出ている。その採点方法について何だか話が聞こえてきて、あまりにもビジョンのない継ぎ接ぎ設計で呆れてしまった。

記述式の試験を実施するにあたってもっとも大きな問題は、採点の方法である。そこで決定的なのは
全員公平に採点すべき
という発想である(「入試を公平に」はどこかの法律に規定されていたはずである)。

そもそも記述式を採用する理由は、択一・穴埋め式の試験が画一的な教育を生み出すという問題だったはずである。我が国の未来を考えたとき、そうした型にはまっただけの人が増えるのでは困る。もっと多様なユニークな発想をする人が出てきてほしいという発想だろうと思うのだ。

するとここに矛盾があることがわかる。すなわち多様でユニークな発想をする人を、全国統一の採点基準で選抜することで見出そうという話である。

その点で、琉球大の河野真治先生のツイートには賛成する。
https://twitter.com/shinji_kono/status/766493850311340032
すなわちこんな発想で作った全国一律の記述式試験など無駄であり、その採点に各大学の教員が当たるなど時間と労力の浪費である、人工知能で採点出来るくらいで充分だというのだ。

昨今の「大学改革」とやらには、アメリカの大学を手本にしようという雰囲気が感じられる。だがアメリカの大学の入学者選抜がどういうやり方をしているのか本当にわかっているのだろうか。アメリカの優秀な大学では、アドミッションオフィスがその選抜を行う。そのやり方は十分練られたものであるが、基本的な発想として「完全に公平に」などということはむしろありえないと思う。SATは大切であるが、それ以外の部分も大きく、それは全く公平とは言えないと思う。それでもとにかく各大学が優秀な人を探してきて教育し研究させてさらに伸ばして社会に出そうという発想がそれを上回っている。まあその多くが私立だからできるということなのかもしれないが。

この点で昨今言われている新・センター試験に記述式問題を導入することは本質的に矛盾があり、そこに各大学の研究者たちの時間・労力を投入させようなどというのは、我が国全体にさらに大きなダメージをもたらすことになると言わざるを得ない。「さらに」と書いたのは、すでに現行のセンター試験の実施だけをみても大きな浪費だと思うからである。よく聞こえるのは2日間の試験監督のつらさであるが、その実施のための事前準備に多くの時間と労力が使われている。

対案を出せ、とか騒ぐ人がいると思うので、昨日それは上げておいた

追記:昨日、どうにも書かなくてはならないと思って、20分しか時間がないところで書いた記事を、多くの方がSNSで広めてくださった。しかしその内容たるや、魚で言えば頭と尻尾はなんとかあっても、身がないどころか背骨でつながってもいないレベルであった。本当は加筆したいのだが、たくさんの方が見てくださったところを後から加筆するのは格好が悪いので、こんなことを書いてみた。

新・センター試験について [教育について]

なんだかまた大学入試センター試験を「改革」とかなんとか言ってて、がたがた話しが聞こえてきた。

記述式、大学が採点へ センター後継新テスト 国語で検討(2016年8月19日朝日新聞)
http://www.asahi.com/articles/DA3S12518470.html

全く雑な制度の変更だと思う。これらを考えている人たちは頭が悪いとしか言い様がない。

いや、言葉が過ぎた。正確には、大きなビジョンのない継ぎ接ぎだらけの設計変更だということだ。

そもそも現行の大学入試センター試験はどこに問題があるのか。改革をするならばその総括を明らかにし、それを振り回して全体の設計をすべきだ。

言われているのはこういうこと。
一問一答式の試験になってしまい、それに対する対策が単なる暗記の羅列になっている

確かにそれは正しい。しかしそのどこがいけないのか、どう改善すべきなのかという根本のところの議論が一つにまとまっていない。よく聞くのは
教科書レベルの知識を単に知っているというだけではダメだ。

という意見。歴史や国語などでよく聞く話だ。ところがその議論が
暗記で得られる知識は要らない
という話にすり替えられている節がある。もちろん「単純な年号丸暗記」は意味がない。だがそんなセンター試験レベルの知識でもないよりあった方がずいぶん良いのだ。

問題は「それがすべてだ」とする発想。高校などでの受験指導は
まずはセンターで点を取れ、国公立を受けろ
である。そしてそれをメインストリームとして、たくさんの教科を勉強するのをいやがる生徒を「私大型」とかいって隅へ追いやる。

多くの各国公立大学は個別学力試験(2次試験)を行う。ところがどこの大学を見ても「センターがダメならダメ」というシステムなのだ。

ちなみに私の専門である数学におけるセンター試験の悪影響はこんなものではない。

○ 高校の教科書に書かれた範囲で
○ 全国の高校生が受けて
○ 結果が60点平均になるようにしろ

という無理難題を言っている。その結果、大量の問題を課すことになり、それに対する対策は「パターン丸暗記」だ。一応数学・数学教育の専門だろうと思う私でも、時間内に解くことはとても困難だ。

「全国の大学を一律に並べて」という発想は、今の政府の方々が嫌っている「(昔の)日教組」の考え方だ。

こういう中で出てきたセンター試験の「改革」に、「記述式解答」の問題を出すというのが上がっている。そもそもそれを全国一律で採点をするなどというのはほとんど不可能。しかも上の新聞記事で報じられているのは、それを各大学の教員にさせようという話だ。

ひどい話しである。こんなバカな改革をしても、大学が疲弊するだけだ。

文句ばかり言っても仕方がないので、一応私の改革案を述べておく。

1) センター試験の基本設計は現行のままとする。
2) 出題者に対して上記のような結果分布を要求しない。平均点が80点になっても構わないことする。
3) 国公立大学にこの試験を入学者選抜に用いることを義務化しない
3) 各大学は自校の状況に応じて個別学力試験との配点比率を自由に決めて良い。
4) 科目間の成績分布の差については、各大学がそのやり方を自由に設定し、事前に公開する。

タダでさえ大学入試センター試験が大学教員の負担になっているのに、さらに新しい仕事をさせて、それが大学の研究力をどれだけ削ぐのか、しっかり考えてもらいたい。


こういう教育をしたいよね [教育について]

昨今あらためて「大学における教育」ということについて考えている。

その端緒の1つはもちろん「文系学部解体論」である。

大括りにするのは失礼だが、こんな話になったのは、残念ながら大学の文系学部はろくな教育をしていないということに尽きる。何百人単位の教室で、昔のノートを読むだけの「講義」。とりあえず自分が書いた教科書の売れ行きだけが心配なの?と言われてしまうような体制。

よそばかりは言えない。我が社などはその最低最悪なヤツだったわけで、そういう報告がされてていたことを私は忘れないし、我が社はそれを何とかしようと改革をしているし、その一環で自分が嘱任された(という方言が早稲田大学にはある)わけだ。

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もちろん日本中でそうでない教育もたくさん行われていることを知っているが、文部科学省サイドから「文系学部は解体せよ」のような話が出てくるのは、大臣に問題があるというより官僚が考えていることであり、その文部官僚の大半は「役人養成大学・文科」出身であり、そこでろくな教育が出来ていないからである。そういう教育をうけたそこの出身者が「文系学部は要らない」などと言ってしまうのである。

偉い先生が書かれた書籍も読んだ。話題になった本のうち「そうでない教育をやってるぞ」という本には共感するが、 「こうあるべきだ」という話は論旨には納得するし賛成するが、そんなわけで鼻白む。

じゃあ自分の考え・実践は?

長年、国立大学「文系」学部で教育をしてきた。専門が数学なのになぜ?とかいうのはどうでも良い。というより「文系/理系」という括りを不快に思っているのでそこは無視。数学の世界でずっと行われてきた教育方法=ゼミナールによる少人数教育=で学生を鍛えてきた。学問内容は数学にとどまらない。教育学も教育心理学も法規などもふくむ。私がしたことは大したことはないだろうが、少なくとも学生はちゃんと立派に巣立ってくれた。具体的に言えば、今流行の「アクティブラーニング」である。ただし幾分強い力を掛けて始めるのであるが。

専門教育はそれでよい。膝詰めでやるからソクラテスの問答法を応用することも出来る。大昔からやってきた方法である。

で、自分の現職。グローバルなんとかという恥ずかしい名前のセクションに所属しているが、「今風の教養部」であると言えばわかりやすいだろう。数学の講義だが教養である。昔の教養部は一律に「線形代数/微積分」を講じていれば良かったのかもしれない。学生の出来が悪いから少し薄めて、みたいなことを言っていたのだろう。学生に対して甘えることができた古き良き時代だ。だが今は違う。本当の意味のリベラルアーツ教育が出来るのか、そしてそれが今の社会に合致しているのかが問われている。

かつて同僚であった、現・日本T大学のS教授が言っていたことを忘れない。
専門は若手の一線の研究者が講ずるべきである。教養は幅広くものを知る碩学が講ずるべきである。

自分は碩学などという言葉からは程遠いのだが、研鑽を続けてなんとか教養の講義として成立するように日々努めているつもりである。

そんな中、同僚の授業の報告を見て唸ってしまった。

池原 舞氏・授業の前にこんなことを。
https://www.facebook.com/mai.ikehara.7/posts/869169249879329?pnref=story

池原氏は自身が奏者としての活動も行いながら音楽史を専攻する若手研究者である。
担当はいわゆる「教養科目」であるが、その授業は研究者としての知見のみならず、現役の奏者としてのパフォーマンス、また現役のプロデューサとしてのマネージメントもふんだんに盛り込んだ、とても豊かなものである。その中でのこの授業(前のパフォーマンス)。

別の授業を見せてもらったこともあるのだがそれもすばらしかった。およそ教師というものはこうでなくてはならない。自分の研究を大いにぶつけ、学生に全力で問いかける。

これこそが我々のすべきことである。

これはおまけだが、こういうスタンスをもって見るとよくわかる。

大学の授業とは
http://sobukawa-in-waseda.blog.so-net.ne.jp/2016-04-15





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