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改めて、「わかる」ってなに? [教育について]

これまでも「わかるとは何か」について色々と書いてきた

たとえば、一番近いところでは
直感でわかるロジカルシンキング 
http://sobukawa-in-waseda.blog.so-net.ne.jp/2015-02-23

関連するのが、たとえば旧ブログのこの記事
続・ノートを取るということ
http://takuya-sobukawa.blog.so-net.ne.jp/2014-03-29

などなど、長らく考えていることであり、不遜ながら自分なりには決着している問題である。そしてそれをどうやって教育に活かしていくかに自分の興味は移っている。もちろんこれらの理解が揺らぐような出会いがあればまた考え直そうと思っているが。

で、最近出会ったこの記事。
ももせいづみ
12時間円柱を描きつづけてはじめてわかったこと。「気づく」までにはたくさんの時間がかかるのに、みんな先に教わってしまうんだね。2016.04.24 Sunday 14:26 http://izoomi-momo.jugem.jp/?eid=1243701

そうなのよ。

数学の話で言うならば、いきなり公式を教えて、ほれ代入しろ計算しろ、○だ×だ とやってはいけないという話。

昔々。妹が大学受験をしていたとき。私が酔っ払って帰ると、またお腹を空かして夜10時頃帰宅すると、妹が待ち構えている。数学の質問だ。大抵「3日は考えろ」と言ってしまうので、まじめな妹は本当に3日ぐらい悩んでからやってくる。そこで飯を食いながら、また酔い覚ましの水を飲みながらちょこっと教える。ものの3分で「なーんだ」となる。妹は兄がスゴいと思っているようなのだが、それは全くの間違い。スゴいのはその3日間悩んだことなのだ。

結局、そこまでしないと本当に「わかった」にはならないのだ。これはその後も続いていて、学生に数学を教えるのに、ものすごい回り道なのだが結局一番効率が良いのはゼミだ。学生はさんざん悩んでくる。そしてなんとか曽布川の前を通過しようとする。多くの場合に捕まる。そこで一生懸命準備をしてきた学生には、アドヴァイスは大抵一言だ。そしてその習慣がつくと結局1人で勉強できるようになる。

岡山ではそういう学生をたくさん送り出してきた。まあ早稲田ではそんな必要はなくて、学生は自分で出来るんだろうけれど。



大学の授業とは ~ 自分の授業のあり方について [教育について]

新年度に入り、それまで半期で行っていた授業を四半期に分けた。その影響でか、「楽勝」の誉れ高き授業の履修者が昨年の三分の一になるなど色々と驚いたこともある。

また、ある科目のオンライン授業を作っている。英語でやれということで、対面ならともかく、ビデオ講義を英語でやる根性は今ひとつ足りないので、色々と考えている。

そういう新しい授業設計をするに当たって気づいたことがある。

大雑把に言って大学の授業は3つの性格を持つものではないかと思う。

1)エンターテインメント
2)トレーニング
3)知識伝達

もちろんはっきり分けられるものではなく、どれもを含むべきなのだが、やはり立ち位置というのがあると思う。それぞれ述べてみよう。

1)エンターテインメント系
ずいぶん言葉が悪いのだが、仕方ない。たとえば私の専門である数学。大学に入ってくる多くの学生は数学が嫌い。
。「受験のため」「数学ができるヤツは理系、できないバカは文系」「公式/解法を覚えろ」

そんなことを言われて好きになる方がおかしい。嫌われて当たり前だ。しかし社会に出た人たちが「もっと勉強しておけば良かった」と思うジャンルに英語と並んで数学が挙げられている。つまり必要なのだ。そうした学生たちに対して少なくとも忌避感を除き、できれば興味を持ってもらうために、数学の魅力、有用性などを感じてもらうことには意義がある。もちろんその中にはある程度数学そのものの話をしなくてはならないのだが、我が社ぐらいならば中学校レベルの数学なら特に問題はない。高校の知識は基本的に使わなくてもできることは多い。とにかく面白いと思ってもらわなくては話にならない。

そういう超入門系の必要性はあまり語られないが、その点で我が恩師の著「数理と社会」(数学書房) は重要な書である。

2)トレーニング系
その授業で学んだことによって何らかの力がつくというタイプの授業。筋力トレーニングは授業でやっただけではダメだが、脳の「筋力」トレーニング、すなわち考える力、考える方法を知ることは重要である。演習系の授業の多くがそれに含まれる。

3)知識伝達系
大学は高等教育機関なのだから、高い知識を伝達することがその責務である。昨今「大学なんで無駄だ、必要な知識はネットで取れる、今やハーバードでも東大でもネットで講義を公開している」と言われるのは、ほとんどこの類いである。もちろん目の前にその道の専門家がいて専門の話をしてくれるなら色々な意味で良いのだが、確かに専門的ではあっても通り一遍の知識を伝達するだけならばネットでもずいぶん用が足りるだろう。

こうした本質を考えたとき、たとえば評価方法なども変わってくるのだろう。エンターテインメント系に重きがある授業では、出席&授業レビュー&議論 が重要になる。トレーニング系も出席が大切で、そこでどちらかというとハードに勉強し、毎回評価される状況が必要だ。一方知識伝達系は、極端に言えば、授業など出なくてもよい。それで期末試験ができればいいのだ。

アメリカの大学の話を側聞すると、このことがわかって設計されているようである。多くの授業で講義と演習(ディスカッション)がセットになっている。すなわち楽しい導入がなければ学生は飽きるし評価されない。知識はたくさん詰め込む。さらにそれをアウトプットするトレーニングをする。アメリカの大学の多くは「教養学部」だが、そこでものの考え方まで深く身につける。ダブルメジャー制を取るところも多いし、卒業後、また就職した後でも全く違うジャンルに転身する人も多い。

日本では残念ながら3)のみのようだ。そして1)や2)を持てはやそうとしているけれど、それを部分的に捉えているケースが多いようで、サンデル先生みたいなのが異常に受けているけれど、どんなジャンルでもいきなり2)のようなことができるわけではない。

まあ日本の大学では「教育」活動はあまり評価されないのだが、自分は教育メインのポジションなのでそれを常に考えている。実際、90分×週2コマ×8週(2単位)でも「講義&演習」でトレーニングに重きを置いた授業をやっている。90分×週1コマ×8週(1単位)でエンターテインメント系の授業もやっている。もちろん90分×週1コマ×15週(2単位)でほとんど知識伝達ばかりの講義も行っている。

まだまだ強化していかなくては。

書きたいことはたくさんあれど、次から次と流れて行ってしまうこの頃。
だが、これは後々のためにも記しておく。


数理と社会―身近な数学でリフレッシュ

数理と社会―身近な数学でリフレッシュ

  • 作者: 河添 健
  • 出版社/メーカー: 数学書房
  • 発売日: 2012/09
  • メディア: 単行本



アウトプットが重要である [教育について]

京都橘大学の池田修先生から論文が送られてきた。

連続型テキストの読解を、非連続型テキストの表現から導く指導に関する一考察
~ 二回生ゼミ、京加留多の取り札作成を通して ~
『京都橘大学研究紀要』第42号 2016年2月18日発行

この論文の紹介blog記事はここ。
http://ikedaosamu.cocolog-nifty.com/kokugogakkyuu/2016/02/post-2d2d.html

池田先生とはもう何年ものお付き合いになる。といってもお会いしたことはない。ネット上でだけの知り合いである。しかし現場教師としての、また教員養成に携わる大学教員としての、さらには料理や写真や車など幅広く嗜まれる教養人としての、その生き方に深くあこがれる方である。

さて、今般お送りいただいたのは、大学生相手の授業実践についての報告である。面白いのは、国語科教育の授業の新しい試みでもあり、また同時に中学校(には限らないが)の国語科の教材開発についてのご報告であるともいえることだ。

内容は「京歌留多の取り札を作ってみよう」という活動である。ことわざや格言などが読み札に書かれているわけだが、それに対応する取り札を作るのである。

読み札の内容にあった取り札を作る。市販のこうしたカルタの取り札には絵が描かれていることが多い。古くから楽しまれてきたこうしたカルタについてその絵の内容を調べることも、たとえば時代背景や経済状況などとの関係もあって面白いだろう。

一方この実践では、それを身近な題材を使って作ってみようというのが課題になっている。そこでは読み札の文章が何を意味しているのかを吟味し、それをどう表現するかが主たる課題となっている。論文中では「連続的表現から非連続的表現への転換」というような形で表現されている。この連続/非連続的表現という概念を良く知らないが、ここでは「文章から映像への転換」ということであろう。

もしかしたら少しずれるのかもしれないが、小学校算数科を考えたとき、計算技術は当然大切。と同時に「日本語から算数・数学語への翻訳」が大切になってくる。その段階で理解が深まる。日本語話者である大学生に英語の文献を読ませるときにも、結局そのときに内容をどの程度理解しているかが重要なのだ。表現形態の転換には、ことがらの本質的な理解が必要となる。その点で素晴らしい活動だと思う。

この取り札を写真およびデジタル技術を使って作る。論文でも指摘されている通り、絵を描くというのは筆記用具があればできることなので一見簡単に思われるかもしれないが、絵が上手に/思い通りに描けるかということがそうとうに大きな障害となる。近年は容易に入手できるデジタルカメラ・スマートフォンとコンピュータによる編集を用いれば、特別な技術がなくとも十分に表現ができる(本文p.22 3(3)節)。拙旧ブログにて述べたように(コンピュータが子供をダメにする 2008.9.12)ICT機器万歳でないのは今でも全く変わらないが、同時に内容をどうするかという視点で深く掘り下げるべきものであるのも確かである(よくぞ言ってくれました 2008.11.5)。

このことはICTの世界に留まらない。たとえばLegoやニューブロックに代表される積み木・ブロック系の玩具は、子どものおもちゃに留まらず、技術をさほど問わない重要な表現方法(ジャンルとしては彫塑ということになるか)である。前職、岡山大学教育学部で親しく接して頂いた橋ヶ谷佳正教授(デザイン学、タイプグラフィー)は、絵を描いたり彫刻をしたりという技術は確かに大切だが、それがなくても彫塑表現はできると言って、実際に学生にブロックで大きな作品を作らせていた。

さて、表現技術のサポートとしてのICTの活用はすでに述べたように力量以上に見栄えのいい作品を生み出してしまう可能性もあり、諸刃の剣ではある。だが出来上がったものを容易に推敲し、表現しようとする内容を深めることに用いることに努めるならば、色々な効果が期待できるのである。

学習におけるアウトプットの重要性については、この論文でも述べられている。アクティブラーニングなどと呼ばれて最近流行しているものもその関係だ。我々数学をやっているものはほとんど例外なくゼミナール形式で鍛えられており、いまさらなんだという気はしている。

ちょうど先日ツイッターに書いたことを思いだした。岡山大学教育学部在職時、学制は3年次から研究室配属になる。Sobu研では3年次初めから原則英文のテキストを読み始め、3年次の終わりでいったん休む。それから教員採用試験の勉強をし、試験が終わった秋口から卒業研究に取り掛かり、興味のある方面の書籍を読み次いで自分の大きな世界を作り、それを論文にする。その休み明けももちろんだが、「論文が書きあがったとき」「口頭発表の準備ができたとき」「実際に口頭発表が終わったとき」に学生は自身の大きな成長を感じる。

今回の論文を拝読して、私が学生に2年間かけてやってきた指導内容を。短い授業時間のなかで体験させている池田先生のこの取り組みはFacebookで時々上げておられたのでなんとなく知ってはいたが、こうしてまとめたものを見て、改めて素晴らしいものであると思った。



「つぶしが効く」学問? [教育について]

これまでもずっと見ているが、あまりここで紹介したことはないし、増して反論などしたこともない、東大の中原淳氏のブログの記事について書いてみたくなった。

世の中に蔓延する「つぶしがきく幻想」を冷静に考える!?:いったん学んだことだけで、一生食いっぱぐれないのは可能か? 2015.12.1
http://www.nakahara-lab.net/blog/2015/12/post_2521.html

「大学でつぶしのきく分野・学部は何ですか?」と問われたのに対してどう答えたかという話である。

この文章を見て、中原氏は一義的には学者さんなんだなと思った。自分だったらこういう議論展開はしないからだ。
僕がもっともリスキーだなと思うのは、この言葉の背後にある仮説=背後仮説です。  この言葉の背後には、 1.どんな状況になっても、生き残っていける万能のスキル・能力があるはずであり、それを体系だって教えてくれるものが学問であるとする考え 2.その学問分野を教育機関では学んで、スキル・能力を獲得しちゃうことが、将来の優位まで保証してくれるはずだという考え 3.仕事に入ったら、それを武器として、何とか生き残っていくことができるはずである  という考え方が見え隠れするからです。

なるほど、まあそれはその通りだと思う。でそれに続いて

 僕の常識では、
1.これだけ社会のあり方が変わる現代で、どんな状況でも生き残っていける知識・スキルを想定することは困難である。むろん、学問はそれを体系的には教えられない
2.教育機関で学べることだけで、一生生き残っていけると考えることが、そもそも想定できない
3.仕事領域に入っても学びはつづく。むしろ、そこで学び続けることが重要

いやいや、それもその通り。だから氏を非難する気は全くない。でも自分だったらそう聞かれたら全然違う答えをするだろう。

そもそも大学の勉強は役に立たない。だから大学などに来ても無駄だという意見もある。特にホリエモンとか最近ビジネスで成功している人たちの中には「大学進学なんかやめてしまえ」という人もいる。まあそう思う人はそれでいい。だが私は違うことをいう。

○ きちんと論理立てて物事を整理する力
○ わからないことがあったときに、単にググるだけではなくて自分で調べる力
○ 世の中は自分の知らないことがほとんどであるから、幅広く身に着けようとする姿勢

これを養うことは、実はどんな学問をやってもできると思う。ただし条件がある。
ちゃんとやるかどうか
残念ながらどの大学のどの学部でも、またどの先生もそういう教育をしてくれるとは言わない。そういう指導をしてくれないところも多い。でもそういうところに行きなさい、そうやって勉強しなさいというだろう。

で、次に言うのは
わが社へいらっしゃい。そして私の授業を取りなさい。厳しく指導してあげるから。


自分は中原氏とは違って、基本スタンスが教育者なんだなと思う。

物理は数学のお母さん [教育について]

こんなまとめ記事を見た。

教科で分断される教育について
http://linkis.com/togetter.com/li/bMDsE

今の学生は
数学で習ったことは理科では使ってはいけない
とか平気で言うというのを嘆いている。

まあ尾ひれが色々と並べてあって、その中にはどういう立場で教育しているかということを無視した話も合って、例の「掛け算の順序問題」レベルでくだらないと思うのだけれど、それはどうでもいい。

私の場合。なんと言っても最高なのは25年ほど前、高校生に
Sobu数はあれは数学じゃない、国語だ!
と言わしめたこと。すなわち論理的に明確な形で表現するのは数学がもっともやりやすいモデルなわけで、今の国語教育(「妙な解釈論に拘泥しがちな」というと叱られるが)の補完としても機能するだろう。実際、早稲田に来た今はその塊みたいなことをやっている。さらに言えば当時その高校で同じクラスに出講していた現代国語の先生が「論理的な文章の書き方」をじっくりやっておられたのを知って、裏で色々とタイアップしていたわけだし。

まあ「総合的な学習の時間」のあたりから「教科の垣根を越えて」とか大きな声で言われるようになってきたけどダメだろうな。そもそも「理系・文系」だなんて言ってるようじゃ話にならないと思うので、こういうこともたくさん起きるだろう。(古い課程であるにも関わらず)高1で地学、高2で物理が必修だった私は、三角比や指数対数やベクトルについて、教科書を無視して先に数学の時間に学び、そして地学や物理で使ったので、こういう感覚はない。さらに高3の理系物理ではビオ・サバールの法則(Biot-Savart law)が出てきて、否が応でも「dH= 」みたいな式を扱ってた。もちろん恵まれた特殊な環境ではあるが。

ついでに余計なことも言っておくならば、日本では長らく統計教育が軽んじられてきた。本当は小中の社会科・理科でこれを扱うべきだったと私個人は思うのだが、全くそうはなっていなかった。これもその垣根の高さなのだろうと思う。

で、このまとめ記事を見て自分の標語を思い出した。
物理は数学のお母さん 哲学は数学のお父さん
検索してみると旧ブログも含めてどこにも書いていないようなので驚きだが、私の講義を聴いた人は知っているだろう。この標語にこれまでも色々とケチをつけてくる人がいたが、それぞれの立場があるだろうからどうぞご自由に。

もちろん、数学の王様は「代数」であり、女王は「幾何」であると思う。それらに比べれば物理学と直接結びつく「解析」なんてのは新興勢力だが、「代数」「幾何」はPhilosophyの中に入っていたわけだから「哲学はお父さん」なのだ。もちろん最近の発展で、幾何と物理、代数と物理も重要な関係があることはわかってきたのだが、私にはそれについて述べるつもりもその力もない。

大学のセンセたちがこのまとめ記事にあるように惨状を憂いている。まあ気持ちはわかる。だがそうなってしまった理由を考えれば、我々大学教員はまずじぶんの周辺からでも始めなくてはならないのだ。高校教員に問題があることは確かである。しかしその高校教員を生み出したのは誰だ?入試も大学教育も、その責任を感じなくてはならない。

少なくとも私はやっている。

続々・ノートを取るということ [教育について]

今日見つけた記事はこれ。

なぜ、手書きのメモはノートPCに勝るのか 
DIAMOND ハーバードビジネスレビュー 2015年11月05日
マギー・マグロイン
http://www.dhbr.net/articles/-/3576

こういう形で述べられるとみんなありがたがるだろうと思うが、その本質は私自身これまでも何度も述べてきたことと同じである。この記事の中核は、
PCでメモを取るというのは、その場で音声認識された用語をCode化するだけの仕事
になってしまっており、
手書きのノートにおいて期待できる、「記憶・思考の足がかり」としての機能が薄い
ということである。

「何のためにノートを取るのか?」についてはこれまで何度も述べてきた。これらの記事を見てもらえば、その本質がわかってもらえるだろうと思う。


たとえば旧ブログの(前職における遺言か?!)
「続・ノートを取るということ」 2014.3.29
http://takuya-sobukawa.blog.so-net.ne.jp/2014-03-29

その前に本質を述べたものとしては
「ノートを取るということ」
http://takuya-sobukawa.blog.so-net.ne.jp/2011-05-23

具体的なノートの作り方として
http://takuya-sobukawa.blog.so-net.ne.jp/2013-06-11

などがある。

なかなか気合いが入る新ネタが見つからなかったので更新が滞っていたこのブログ。だが「また同じ話か?」「昔の話のレビューか?」と言われても書かないことには話にならないとおもって頑張ってみようと思う。

早稲田はいかに人を育てるか [教育について]

この本は、自分の人生を決める本だったのだとあとから思った本を紹介したい。


早稲田はいかに人を育てるか 「5万人の個性」に火をつけろ (PHP新書)

早稲田はいかに人を育てるか 「5万人の個性」に火をつけろ (PHP新書)

  • 作者: 白井 克彦
  • 出版社/メーカー: PHP研究所
  • 発売日: 2007/01/16
  • メディア: 新書



見ての通りである。早稲田大学が創立125周年を迎えた2007年に出版されている。出てすぐに読んだのだが、その記録はネット上には残っていない。しかし自分の心には深く刻み込まれていたのだ。

当時は国立大学の教員であり、塾員(慶應義塾大学卒業者)でだったわけだが、当然ライバル早稲田のことは気になっていた。そこで出たこの本とその周辺で報じられた内容に深く感銘を受けたのだった。

慶應義塾よりも23年遅れて開校された東京専門学校=早稲田大学は、大隈さん個人の人気や、卒業生が多く広く活躍していることもあって、「偏差値ランキング」でも長らく慶應義塾よりも少し上の評価を受けていたように思う。だが気がついてみれば、今世紀初頭の段階ではこの早慶の序列がひっくり返っていた。もちろんそんなランキングはくだらないと言えばそうだが、その理由が大学における教育の質に起因するのではないかということに当時の関係者が気づいたのだろうと思う。

慶應義塾は湘南藤沢に横断的に学問を行う2つの学部を作った。色々な試行錯誤を続けながら結局社会で大きく評価されるようになった。そのほかにも教育にずいぶん力を入れているとみられたのだろう。

対して早稲田は長く、卒業生が「オレは早稲田には何もしてもらっていない」と言ってのけるような状況(これは私の従兄弟2人が私に直接言った言葉である)。

それについては、こんな本を読んでいたことを思い出した。

大学を問う―荒廃する現場からの報告 (新潮文庫)

大学を問う―荒廃する現場からの報告 (新潮文庫)

  • 作者:
  • 出版社/メーカー: 新潮社
  • 発売日: 1996/04
  • メディア: 文庫


91年に産経新聞で連載された記事をまとめて92年に出された本である。私は初版本を読んでいて、手元に残っているが、その後文庫化されるほど売れたようだ。

その冒頭に、「早大政経だけには行くな」と言われていたという話が上がっている。教育の質の低下をズバリ突いた厳しいルポ。これでは長期低落は免れないと考えた早稲田大学の、社会に対する高らかな宣言。それが冒頭で紹介した本書である。

ちなみに本書では「もっと早い時期から改革を始めていた」とあるが、そのことについては当時は全く門外漢であった自分にはよくわからない。首肯する資格はないし、否定する根拠もない。だがそんなことは今となってはどうでも良い。

当時は英語教育の「テュートリアル・イングリッシュ」という科目が軌道に乗った頃であった。現在はそれに「アカデミック・ライティング」「数学基礎プラス」「情報教育」「統計リテラシー」という4部門が加わっている。その「数学基礎プラス」の担当として採用されたのが自分である。

この本を読んで6年後、今の私のポジションが新規にオープンになったのを知った自分は、本当にうれしく感動した。そして是非その仕事をしたいと思ったのだった。

現在はまだ目一杯それに関われているわけではないが、この感動を思い出したくて、最近本書を古書で再度購入(とっくに絶版)。手元にあった92年の本と合わせて、改めて読み直している。

これが今の早大教授たる自分の原点なのだから。

直感でわかるロジカルシンキング [教育について]

「ロジカルシンキング入門」なんていう講義を出している。ずっと自分で考えて来たことがあるので、それに対する思いが強い。それだからか、世にあるロジカルシンキングがどうしたという書籍で意味のありそうなものを見たことがなかった。新しいものを見てもあまり食指は動かない。

この本についても、twitterでずっとフォローしている 伊藤達夫氏 @TatsuoIto の書かれたものだしどうしようかなと思ったが、このタイトルを見てこれはもしやと思って即予約して読んでみた。

直感でわかるロジカルシンキング

直感でわかるロジカルシンキング

  • 作者: 伊藤 達夫
  • 出版社/メーカー: 技術評論社
  • 発売日: 2015/02/19
  • メディア: 大型本



どこに魅かれたかというと、
直感でわかる

である。それは売るためのキャッチーなネーミングかもしれないが、私はここがポイントではないかと思っている。

そもそも昔から「論理的にわかる」なんてのは認めない。あんまりしっかり書いていなかったのだが

論理的に思考? 
http://sobukawa-in-waseda.blog.so-net.ne.jp/2014-08-05 

旧ブログでもたとえば
ノートを取ること
http://takuya-sobukawa.blog.so-net.ne.jp/2014-03-29

と述べている。そしてこのような考えに則り、これまで学生指導を行ってきた。

本書は、少し言葉遣い・言葉の定義が違うが、本質的に同じ発想のようだ。

1時間目:わかる
まずは論理的に「わかる」ことが1歩目だと説く。社会科学系・人文科学系ではそれでもいいだろう。これまで数学教育を指導してきた立場からすると、教師にとって
 ○ 論理的に「わかっている」だけでは話にならない
 ○ その上で感覚的に、しかもいろいろな角度でわからなくては授業などできない
 ○ しかし直接的に伝えられるのは「論理的に」だけであって、感覚的な理解を他人に伝えるのは相当に難しい
と思っている。その上でわかるということを
 ○ 既知の知識と一体的に結び付くこと
としてきたのだが、その点で本書は少々進め方が違うようではある。

2時間目:考える
基本的な発想は変わらないように思うが、本書はずっと具体的である。それはビジネスシーンをお思っているからだろう。曰く
 「事実と違うことを想定するのが考えるということ」(p.46)
数学教育や数学の研究をしていると、自らそれを想定する段階が必要ないことも多い。なのでこの指摘はなかなか面白い。この話はイタダキである(ネタバレになってはいけないので、詳細は本書に譲る)。

3時間目:伝える
ここになぜか 「「わかる」には2種類ある」 とある(P.78)。このあたりが私がもっとも共感できるところである。

こちらはまだまだ大学という象牙の塔にこもっている部分もあって、現時点では「最後は指導した学生に任せてしまう」という部分もあるのだが、本書はその点でもっと社会で使える方向に書かれている。

大学でこれをそのまま教えるかと言われれば私はやらないが、示唆を受けたことはたくさんある。多くの人の感想を聞いてみたい。


直感でわかるロジカルシンキング

直感でわかるロジカルシンキング

  • 出版社/メーカー: 技術評論社
  • 発売日: 2015/02/20
  • メディア: Kindle版



教師の役割 [教育について]

もう年末である。

しょっちゅうネタを思いつくのだが、結局のところ何も書いていない。公私ともに忙しいのがその理由である。せめて「私」が暇であるならばその時間を使って書けばいいのだが、なかなかそうもいかない。

同業他社から移ってきて、それと同時にブログも別バージョンにしたのだが、結局過疎過疎のまま年末を迎えている。

各方面に不義理をかさねてもいるのだが、そんな中せめてこれだけは年内に果たしておきたいことを書いておこうと思う。

ーーー+---+---+---+---

暑い夏のことである。直接会ったことはないが、Twitterでずいぶん前からフォローしている若い人から、著書が送られてきた。

普通、そういうのはしっかりこの場で披露し、評を書くのが礼儀だと思う。少なくともこちらからフォローしたぐらいの人なのだし。だがそれが延び延びになっていた。

しかし大問題がある。残念ながらその書名や著者名をはっきり書くことは立場上出来ない。というのは、その方は某大手予備校の人気講師で、その著書は大学受験用の問題集だからだ。確かにもう国立大学の教員ではないとはいえ、私がその宣伝をするわけにはいかない。だから何をどう書こうかと思っている。

だがまあ書けることを書くとしよう。

問題集? と思った方もあるかもしれない。もちろん単に問題を並べた問題集ならば読む価値もないだろうし、そもそもその方も送ってこないだろう。だが、この問題集を見ていて、学校教育というもののあり方について考えてしまったのだ。

よく「学校よりも塾の方が教え方がうまい。だから学校は無駄で塾だけが重要だ」という話を聞く。さまざまな点でそれには反論したいのだがそれはやめて、一つ受け売りの話をしておく。それは「あくまでも学校教育があるから塾の教育は成り立つ」ということである。それは、「学校に行って、教室に入って、自分の席に座って話を聞く」というようなことからして、学校で教わってきているわけであり、その上で塾はおいしいところどりをしているのだという。もし学校がなくなって塾だけだったら、今学校が担っている多くのことを塾が代わりにしだすだろう。「だから学校より塾の方がいい」というのは全くナンセンスであるという。

受験ということをベースに置けば、その対策のためにだけあるのが受験産業なのだから、そこに特化するのは当然である。それに対して学校はそういうだけの目的ではないので、勢い話が薄まってしまう、しかし学校というのは云々・・・というのはよく聞く話だったのだが、果たしてそうなのだろうか。

今回読んだ「問題集」には、各章の末などに筆者の経験談なり勉強に対する取り組み方が書いてある。昔から予備校名物講師というのはそんな奴が多かったようだ。この本にあるそういうコラムページは、どれも若者たちへのメッセージとして意義深いものである。そもそもそういう生き方の人だからこそ私がtwitterでフォローしているわけだし、筆者からの手紙にもその辺りを読んでほしいとあった。

残念ながら公立高校の教師の能力にはバラつきがある。旧ブログに何度か書いたが、「東大合格者ランキング」に上がってくる学校でさえも、なんじゃそりゃ?という指導をする教師がいる。それを見ていると、昔の「悪い予備校」の教え方そのものである。学問というものを軽視した、目先だけの「得点方法」を教える教師が公立学校に多数いる。彼らの身分は守られている。

それに比べると予備校などは内容がよくないとすぐにクビになるので、今残っている講師にはレベルの高い人がたくさんいる。その「レベルが高い」は単に受験テクニックを詰め込むだけでなく、学問の本質に根差したものの見方ができる人というのを含んでいる。というかそれが必須である。実際、大学の教員が入試を作る(のがふつうな)のであるから、それを攻略するにはその方法で行くしかない。

そしてもう一つ恐ろしいことであるが、私が20年以上も昔から言っている「本当に最高の授業というのがあるのならば、それをビデオにとって日本中配信すればいい」というのが予備校業界ではとっくに実現している。その講師には、こういう「まともな」人が多いように思う。

さて困った。日本中の多くの教師たちよ、どうする? そういう授業が日本中に配信されているぞ。 あきらめて部活動の指導に精を出すか? 

それでは困るのだ。目の前にいるひとから教授されることに意味があるのだ。それでは衛星中継で配信される授業とどう張り合うのか?

私は自分なりの答えについてずっと発言してきたし実践もしてきた。今回取り上げている著者もそこを感じて付き合ってくれているのだろうと勝手に思っている。

しかしこのことについて現在の自分が直接できることはあまりない。もう自分は違う世界に移ってしまったのだ。

そんな自身の大転身があったこの1年を振り返りながら、書評の代わりとしたい。

著者の先生、ごめんなさい。

欧米型の大学教育ねぇ [教育について]

見過ごしていたずいぶん前の記事を読んだ。

「入学は簡単だが卒業は難しい」 大学教育の欧米スタイル導入はなぜ失敗したか 上久保誠人 [立命館大学政策科学部准教授]
Diamond Online 2014年8月22日 
http://diamond.jp/articles/-/57998

なかなか面白い発想である。サッカー日本代表には、世界のトップリーグで活躍する選手が何人もいるのに、その選手が思いの外機能しなかった理由をこういうところに見ているのはさすがである。

個人的な回想をする。

長らく卒業研究を指導してきて、そして現職でも講義の枠組みの中ではあるが、私が学生に対してやってきたことは何か。

それは
まじめでツルンときれいな学生を毛羽立てること
である。

長年、言われたことをまじめにこなす。一生懸命調べて覚えてくる。ここまでは方法論さえ指導すれば何とか出来るようになる学生たちを相手にしてきた。現職ではそれを超えた学生もたくさん見受けられるのが頼もしいが、とにかくそういう学生に対して言ってきたことは
正解はない。あったとしてもそれを聞いて満足するな。疑え。
である。そしてそれを超える手段として、論理的にきちんと説明できること、その展開に自分自身が疑いを持たなくなるまで練り上げることを指導してきた。

必要なのはまず自分から何かを能動的に出していくことである。最近は「アクティブラーニング」とかいうかけ声が聞こえるが、大学教育レベルで聞こえるそれは,大半が格好をつけているだけで実質性を持っていない。言われたことだけを一生懸命覚えて身につけてくる学生を能動的な態度に変えさせるのは、相当に強い力を持ってしなくては無理である。時として学生に対する強いプレッシャーを掛ける必要が出てくる。そのときまでに学生との個人的な信頼関係を築いていなければなかなかそうは行かないのだ。

この記事にあるような若者の姿--むしろわがままにどんどん進んでしまうこと--をベースに物事が勧められればそれでいいのだが、現状はそうではない。だから彼ら彼女らを「毛羽立てて」やることが必要なのだ。その上で初めてあのような教育が出来る。

ちょうど今、早大で初めて、ゼミ形式の授業をしている。
文系の学生に 英語で書かれた 数学のテキストを
使わせている。「無謀だ」とか、「早稲田だから、優秀だから」などと言われるかもしれないが、本質的にはそういうことではない。さらに自らどんどん考えを進め、疑問をぶつけてくるようなことでないとついて行かれないような仕掛けを作っている。講義の前に質問に来ることはもちろん歓迎するが、当然「答え」は教えない。「これで合ってますか?」という質問にも答えない。そういう丁寧な指導を経て初めて欧米の大学のような教育へ向けることが可能なのが、我が国の現実だ。

ここに上げた記事はその指摘として非常に良記事である。

で、大学のセンセたち、どれぐらいそれをやってる/やってきたんだろう。折しも「国立大学には文系学部は要らない」と言ったお上の言い分が聞こえてきたが、大半のところでは言い返せるだけの教育をして来なかったわけで、辛い状況だ。


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